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何か説明するときの現代人の癖

何かサービス、理論、考え方を提案するときの組み上げ方として、

A が (好きor嫌い 良いor悪い )だから

B という(新しい理論、自分の主張)を提案する

という論理が多いように思える。ネットやビジネス系、政治記事、哲学っぽい人のインタビュー記事に多い。これは別にデータをとったわけじゃない主観なので、なんとも言えないけど、納得してくれる人も多いと思う。恐らく、他者と比較する=客観的にみるというような思考になっている?ように見える。

これ。「他者」に依存しているように見える。


本来、その提案したい理論は批判なしでも構築できたはずだし、そういう理論の方が強い。

強いものは、ある仮説、原理原則を土台に検証して成立しているはずだから。この論理に他者の否定はいらない。

もっと分かりやすく書くと、ユーザが求めているものではなく、他社と比較してどれだけ優れているかを説明している。自分の土俵の構造が弱い。


他者の否定から入るのは浅く見えるのかな?

深く思考された理論は、その構造を解釈する多様性がある。扉が多い。他者批判スタートでは1階層で終わる。さらに刹那的に消費されるもので抽象化されていないことが多い。

ただし、他者批判が存在する文章でもしっかりした構造が背景に存在する場合がある。この場合、他者の存在は必要なく理論を説明できる。はっきり言えば、その他者批判の箇所をごっそり削除しても問題ない。むしろそっちの方がシンプルで強い。

例えば、等速直線運動に対する次のような説明があったとする。
外から力がかからない物体は、神が等速でまっすぐに動かし続けている。
この場合、「神が」という部分が説明に不要である、として切り落としてしまうのがオッカムの剃刀だとし、すると次のような説明が得られるとした。
外から力がかからない物体は、等速で直進する。

オッカムの剃刀とは、ちょっと違うけど、言いたいことは似ている。要は余計な情報を入れている。


もし、あなたが何か作っていて(書いていて)、その内容に他者批判をしている箇所があるのなら、他者批判の箇所をごっそり削除してみれば色々わかる。削除すると成り立たないものは、恐らく刹那的で浅い。論理構造が独りよがりに見えるはず。

削除しても成り立つものは深みがある。構造の土台がある。


他者が存在するものって、現代人の癖だと思う。客観的に見えるから。でも実際は客観的ではないというか、前提とする土台が貧弱。

強いものは、ある仮説、原理原則を土台に検証して成立している。この論理に他者の否定はいらない。