名もなき若き特攻隊員
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写真は映画『英霊たちの応援歌』の一場面です。
1945年第二次世界大戦末期、愛する家族を守るために特攻と言う最終手段に多くの若者が志願をしました。特攻で亡くなった方は17歳から20歳前半が中心です。愛する人のために死ぬことが出来ますか?
その多くは、鹿児島県の知覧飛行場に移動し訓練を繰り返して、爆弾を抱えて敵の軍艦に体当たりするという作戦に参加をしました。沖縄は日本の最前線と言う考えから、沖縄の次は本土となる、沖縄を守る事で本土決戦を避けなければいけない、本土決戦ということは家族・恋人が危ない目にあうかも知れない、その家族・恋人を守るために若者達は志願をして特攻隊員となり、太平洋に散っていきました。
このような歴史は繰り返してはいけない、人の命はとても大切であり、その特攻隊の記録がこの『知覧特攻平和会館』に残されています。
知覧に来た多くの若者達は、明日は俺の番だ、明日は俺は死ぬんだと毎日毎日考えながら訓練を繰り返し、片道の燃料を入れて沖縄に飛んでいきました。そして、適の軍艦を見つけると順番に突っ込んで行きました。他の映画のシーンを思い出しましたが多くの若者は『おかーさん』と叫びながら敵艦に体当たりをしていきます。
そんな知覧には、『特攻の母』こと『鳥濱トメ』さん、特攻隊員にとっては大きな存在だったことご存じの方も多いと思います。
知覧飛行場の近くにある小さな食堂で軍の指定となった『富屋食堂』。明日沖縄に行きます(明日死にます)、という若い隊員が最後の食事をとりに来ていました。最後の食事は贅沢に食べさせてあげたいというトメさんは家財道具を順番に売って、そのお金で卵を買ってたまご丼を若い隊員たちに食べさせていました。
10代後半から20代前半の若者たちに人生最後の豪華な食事であるたまご丼を食べさせ、別れを告げていました。
現在でもこの食堂は記念館として残っています。
今の若者たちが求めているものは何ですか?
我々大人に不足しているものは何ですか?
何か見えてくるように感じました。
コロナが落ち着いたら鹿児島そして知覧には行きたいと思っています。
8月15日、76回目を迎える終戦記念日、愛する人を守るために特攻と言う道を選んだ若者達、太平洋に散った約4000名の名も無き命、日本人としてこのような事実があった事、忘れてはいけないと思います。
トメさんと特攻隊員 富屋旅館ホームページより
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