『孫子のヘイヘイホー』 林業の跡取り息子、“孫子の兵法”に出会う――
プロローグ
「おい陽作!てめえ、死にてえのか!」
まただ。鬼塚先輩がものすごい形相でこっちに向かってきた。
「チェーンソーを置くときは歯を奥に向けろって何回言ったら分かるんだよ!」
音を抑えるためのイヤーマフ越しにも、大きな怒声が響いてくる。
「すいません」
「今度同じミスしたらクビにすんぞ!」
――クビ、か。“一応”僕が継ぐことになっている会社なんだけどな。
「おい、お前。クビにならないとでも思ってるだろ」
僕は体が硬直した。まるで心を読まれているみたいだ。
鬼塚先輩は顔を耳元まで近づけてきて「一郎さんの孫だからって俺は認めてねえからな」と低い声で言った。
なんてこった。クビになんかなったら、僕はどうすりゃいいんだ。もう行くところも無いよ……。
◆
ここは長野県の山奥。
僕、北島陽作が生まれ育った場所だ。
もともと祖父や父がやっていた林業なんて、継ぐつもりはなかった。だから、大学を卒業した後は東京に出て就職していた。
何社も受けてようやく拾ってもらったのは、小さな広告代理店だった。新入社員として働いていたけれど、何もかもが思うようにはいかなかった。もともと入りたい会社でも無かったから、周りと比べても“モチベーション”なんてものは皆無だった。朝は早いし夜は遅いし、上司は怖いし同僚は冷たい。
特に同期入社の水川きよしが優秀過ぎて、よく比較されては苦しい思いをした。先輩からも「お前と一緒に入社してる水川くんを見習ったらどうだ」と皮肉交じりによく言われた。でも、水川は鼻につく奴だったから、見習いたくもなかった。いつも小難しそうな本を読んでいるし、頭の回転も速いし、上司からも一目置かれていた。
一方の僕なんて、何かアイデアが湧いて出てくるわけでもないし、何か特別なスキルがあるわけでもない。そんな奴が会社に通っていても、苦しいだけだった。日を追うごとに体調も悪くなってきて、何もする気にならなくなった。そうして、会社を休みがちになってしまったのだ。
そうなると職場にも居づらくなるし、会社にも行きづらくなった。結果的に、会社を辞めてこっちに帰ることにしたわけだ。どうせ僕には他に行く場所なんてのも無かったし、ちょうど父から「一郎じいさんが死んだ」と聞かされた時だった。
「あ、一郎じいちゃん」
ちょうど遺影と目が合った。
僕は、仏壇の前で立ち止まり、一郎じいちゃんに線香をあげた。一代で北島林業を築いた一郎じいちゃんだけは、僕に優しかった。
「おお、陽作か。お前、イヤーマフを付けっぱなしじゃないか」背後から父さんが声を掛けてきた。
「ああ、父さん。お疲れ様」イヤーマフを外して肩にかけた。考え事をしていて、外すのを忘れていたようだ。父さんが続けて口を開く。
「じいさんが亡くなってもう1年か。この北島林業をお前に継いでもらえるってのは、じいさんも喜んでいるだろうな」
「そうかな」僕は踵を返し、そそくさと自分の部屋に入っていった。
薄くて汚い布団に寝そべって、肩にかけていたイヤーマフを手に取って腹の上に置いた。天井のシミを見つめながら考える。僕はなんで木を切る仕事なんかしてるんだろう。いつまでやるんだろう。父さんからは「林業は映画とかにもなったんだぞ」なんて誇らしげに何度も言われるけど、別に何の足しにも慰めにもならない。そもそも映画なんて長いから観てられない。
しかも父さんは「継いでくれ」って言ってるけど、どうやらそんなに業績が良いわけでも無さそうだ。「林業は儲からないからなあ」なんて漏らしていたこともある。いずれ継いだ途端に潰れてしまったりしないだろうか。潰れたらどうしたらいいんだろう。
いや、それ以前に、ちゃんと仕事を覚えないと本当に鬼塚先輩にクビにされる日が先に来るかも知れない。鬼塚先輩は古株で父さんも強く言えないから、クビになるのもありえる話だ。クビになったら何の仕事をしたらいいんだろう。
「はああ」
大きな溜息をついてから僕は、手にしていたイヤーマフを壁に投げつけた。ガンッと音を立てて、床に転がっていく。
そして、イヤーマフを放り投げたことで空いた手に、プレステのコントローラーを握らせた。現実逃避をするにはゲームが一番だ。飽き性の僕は、別にゲームが上手いわけでもなく、コロコロとゲームを変えながら遊ぶのが好きだった。そして、集めるのも好きで、押し入れには山のようにゲーム機とゲームソフトがある。おかげで貯金なんてありゃしない。
この日も遅くまで、ゲームを変えながらいくつもプレイしてしまった。
其の壱
『善く戦う者は、人に致して人に致されず』
「おい、陽作!何時だと思っているんだ!」
また遅れた。林業の朝が早いというのは分かっているけど、いつも夜更かしばかりで寝坊してしまう。そして鬼塚先輩に怒鳴られてしまう。そんな流れがもう、朝の恒例行事となっている。今日もまた、何度か怒鳴られるんだろうな。
「おい陽作!お前にはしばらくチェーンソーを握らせるわけにはいかないから、後ろで見てろ!」
鬼塚先輩がそう怒鳴ってから舌打ちをし、背中を向けた。僕はただ項垂れたまま、その背中を見ることしかできなかった。
鬼塚先輩がチェーンソーで木を切っている様子をジッと見ている間、イヤーマフ越しには木を切る音が響いていた。すると、急に人の声が聞こえてきた。
「……おい」
「え?」
僕は辺りを見渡した。しかし、鬼塚先輩が木を切る姿以外は、人影などない。
「おい、陽作よ」
「え? ……その声は、一郎じいちゃん?」
「そうじゃ。お前のことが心配で、ワシは成仏しきれん。だから、このイヤーマフに乗り移っているんじゃ」
「な……え? はあ?」僕は軽いパニックになった。気持ち悪くてイヤーマフを投げ捨てそうになったけど、「まあ待て」とイヤーマフから出てくる声に止められた。
「とにかく黙って聞け。良いか、林業ってのは日本の高度経済成長が終わった途端に衰退をはじめた。しかし、じゃ。ワシはそれに抗って、北島林業を成長させ続けることに成功した」
「……う、うん」
「陽作が何不自由なく暮らせて大学まで行けたのも、北島林業の成長があったからじゃ」
確かに、山奥の田舎の家だったけど生活に困ったことは無かった。
「ただ、ワシが死んでからは違う。残念じゃが、二郎がこの北島林業を衰退させてしまっている面はある」
「父さんが……」
「ああ。あいつは穏やかに見えて性格的に頑固じゃ。もう50も過ぎとるし、何かを学ぼうという気も無いじゃろう。だから、あいつより陽作のような若いものに教えたい。何より、お前みたいに失敗を恐れている小僧は、身につけなきゃいけないことが山のようにあるんじゃ」
「失敗を、恐れている……」
確かに僕は、失敗を恐れている。就職活動も失敗したくなかったし、就職した会社でも、失敗を恐れ続けきた。その結果が、今だ。このままだと人生そのものが“失敗”だと認定されてしまいそうで、怖かった。
「今晩、とにかくワシの書斎に入れ」
「書斎に?」
「ああ。机の上に一冊の本が置いてあるから、その本のページをどこでも開くのじゃ」
「本を……?」僕は気の抜けた声を出した。
「そうじゃ。開いたページに書いてある“一行の言葉”を覚えておけ。それが、今のお前に必要な言葉ということじゃ。後で聞かせてもらうぞ」
そう言うと、再び木を切る音が大きく聞こえてきた。
木を切る音が止まり、鬼塚先輩が振り返る。
「ちゃんと見てたか? 構えとか俺を見習ってやるんだぞ!」
「は、はい」
僕はイヤーマフを外して、じっと見つめていた。
◆
仕事が終わってから、僕は自分の部屋を横切って突き当りまで進んだ。廊下の一番奥に、一郎じいちゃんが書斎として使っていた部屋がある。亡くなってから全く手を付けていないと父さんは言っていた。
恐る恐る引き戸を開けた。「ギギギ」と音をたてる戸を横にずらしていくと、机が見えた。その上には一冊の本が置いてある。
手に取って表紙を見ると『孫子の兵法』と書いてあった。どこかで見覚えがある。
「……そうだ。水川だ」
会社に勤めていた時、同期の水川のデスクに置いてあった本にも『孫子の兵法』って書いてあったはずだ。あいつも読んでいた本なのか……。それを一郎じいちゃんが?
「ページをどこでも開くのじゃ」と言っていた一郎じいちゃんの言葉を思い出し、適当なところでページを開いた。そのページには、こう書かれていた。
「よく戦うものは、人にいたして、人にいたされず……? なんだかよく分からないな」
僕は本を置き、自分の部屋に戻っていった。首に掛けていたイヤーマフを耳に当ててみる。すると、ほどなくして声が聞こえてきた。
「ページを開いたか」
「ああ、一郎じいちゃん。言われた通り本のページを開いたよ」
不思議なことに僕はもう、イヤーマフから声がすることを何とも思わなくなっていた。
「何が書いてあった?」一郎じいちゃんが聞いてくる。
「なんか、よく戦う者は、人に致すとか致さないとか……」
「……なるほど、それか」
しばらく声が聞こえなくなった。僕は我慢しきれず声を上げる。
「どういう意味なの?」
「これはな、主導権の話じゃ」
「主導権?」
「ああ、ビジネスをする人間は、自らの主導権の確保に対して驚くほど注意を払っていない。何でも言われるがまま、されるがままではダメだ。自ら主導権を確保することで、自分自身の選択肢を増やすことができるんじゃ」
なんだか、分かったような分からないような話だ。僕は首を傾げながら聞いた。
「それって、どういうことなの?」
「人生だろうが仕事だろうが恋愛だろうが、何事も有利にことを進めることが出来るかどうかは、主導権を取れるか否かにかかっている。孫子はな、『先に戦地に行って敵を待つ者は、心の準備と鋭気も養える。そうすると、判断力も冴えて、変化する事態に冷静に対処することが出来る』ということを言っているんじゃ」
「先に戦地に行って、敵を待つ……」
「そう、つまり『自分から先に動くこと』が大事なんじゃ。遅れて動いていては、何をしても不利になってしまう」
「ああ……」僕の頭には、鬼塚先輩の顔が浮かんだ。確かに、いつもそうだ。注意されてから動いている。怒られてから何とかしようと考えている。もちろん、毎日のように朝も遅れて動いている。
「何ごとも先に行く。早く動く。そうすれば、おのずと気持ちは変わってくるはずじゃ。まずやってみろ」そう言い切ると、一郎じいちゃんの気配は瞬時に消えてしまった。
「先に動く、か……」
当たり前のことのように思うけど、改めて言われると確かにそんな気がする。僕はずっと、流されるように生きてきたし、行動してきていた。主導権か。人生の主導権も、自分の手でちゃんと握りなさいってことなのかな。
僕は、いつもの癖でコントローラーを握ろうとして、やめた。スマホのアラーム設定をして、はやばやと布団にもぐり込んだ。
◆
林業の朝は早い。
朝早く起きるのは慣れていないけど、早く寝たのが良かったのかも知れない。現場に入ったら、まだ誰もいなかった。早めに現場に着いたので、手持ち無沙汰だ。とりあえず、チェーンソーを並べて置いておこうと考えた。
「そういえば、“置いておく向き”のことを言ってたよな」
チェーンソーの歯を奥に向けて、並べて置いた。それでもまだ時間があるので、ヘルメットや保護メガネを拭いて待っておこうと思った。朝の森林の中で道具を磨いていたら、なんだか清々しい気持ちになってきた。
しばらくすると、鬼塚先輩が現れた。並んでいるチェーンソーを見たのか、驚いた表情をしている。
「は、早いな。陽作」
「おはようございます」
「今日は雨でも降るんじゃねえか?」そう言って、鬼塚先輩は空を見上げて気持ち悪そうな顔をした。朝から怒鳴られる恒例行事が開催されないのは、何だか変な感じがした。
一方で、その日は一日、なんだか少し落ち着いて仕事ができたように思った。
鬼塚先輩に怒鳴られることも、ほとんど無かった気がする。
仕事を終えて部屋に帰る途中、“不思議なイヤーマフ”を手にしながら、「先に動く、か……」と言葉がこぼれた。
――この時の僕は、思いもよらなかった。
まさか、あの本を読み進めるほどに僕自身が大きく変わっていくなんて。
まさか、北島林業が国家をも動かす巨大企業に成長していくなんて。