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なんとなく

先日、拙連載取材で、お笑いコンビ「ライセンス」の井本貴史さんに話をうかがいました。

まだ掲載されていない分なので、細々と綴ることは控えておきますが、少し前にオンラインサロンを立ち上げたことを軸にインタビューしました。

そのオンラインサロンで井本さんが打ち出していること。それが「“なんとなく”をやめる」ということだそうです。

大人になったら、休みの日に友達といちご狩りに行くことを“なんとなく”躊躇する。

OLさんがタレント的にライブ配信することに“なんとなく”二の足を踏む。

この“なんとなく”は、見栄だとか、照れだとか、遠慮だとか、あるいは惰性だとか、慣れといったものから構成されているが、実は、そこにほぼ意味はない。

だったら、そこを排除して前に進んだ方がいい。自分のオンラインサロンでは、その考え方を打ち出しているという話でした。

話を聞いていて「確かに」と思いました。

この“なんとなく”に支配され、可能性が目減りしているところが人生にはいかに多いか。

“なんとなく”そんなに気に入ってもない店でランチを食べる。

“なんとなく”流れのままにダラダラお酒を飲む。

“なんとなく”親に優しくしない。

結果、実は、その向こうにあるものが失われている。

こんな僕にも“なんとなく”やっていることは多々あります。

“なんとなく”「パララジオ」の自分の出演回の再生回数をチェックし、しっかり多いことに安堵したら、次は誰の出演回が回数が少ないかを頭のノートに書きとめにかかる。

“なんとなく”浦川泰幸アナウンサーがギアを上げた瞬間、揚げ足を取ってみる。

“なんとなく”松井愛アナウンサーの揚げ足を取ってみて睨まれてみる。

“なんとなく”高山トモヒロさんの薄毛をイジって、実は、イジるべきは薄毛ではなく白髪の多さであることに気付きハッとしてみる。

“なんとなく”高山トモヒロさんの過去のオイタをイジって、実は、イジるべきは過去のオイタではなく、奥さまとファッションホテルに通い、ためたポイントで「プレイステーション4」をもらったことだと気付きギョッとしてみる。

閑話休題。

井本さんの話から、それこそ“なんとなく”そんな意識がアタマの中心にありました。

そして、今日、何年かぶりに、非常にお世話になってきた、とある業界の大御所の方にメールを送ってみました。

本当にお世話になってきた方ながら、これぞまさに“なんとなく”連絡を取っていなかった。

でも、連絡をさせてもらったら、それはそれは丁寧に、朗らかにご対応いただき、こちらもとてもうれしくなりました。

なぜ“なんとなく”なんて壁を立てていたのだろう。

否、もしかしたら“なんとなく”という壁があるからこそ、そこをスッとぶち抜いてみたら、ぶち抜くスカッと感が呼び水となり、清涼感漂うカタルシスが一気に押し寄せたのかもしれない。

そして、壁があったかこそ、混ざらず、濁らず、澄み切っている領域が、向こう側には存在していたのかもしれない。

“なんとなく”の向こう側には、実は、光り輝く純度の高い物質が鎮座ましましているのではないか。そんな真理すら、朧げに見えた気がしました。

そんな発見をタイトルに込め、拙著「なんとなくクリスタル」を出そうかしらと思ったが、なんとなくやめておいた方がよい気がする46歳。

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