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人と散歩

浅草で演劇を観て、隅田川沿いを初めて歩いた。同じ劇を観た劇団の先輩と一緒に。
硬い建物だらけの自宅周辺とは違って、生きているみたいに光が揺れ続ける水面とだだっ広い夜空が広がっている。対岸の高速道路を走る車の音が遠く聞こえるだけ。静寂未満の空気が鼓膜を休めてくれる。久しぶりの自然の風景である。
東京はコンクリートジャングルで、公園以外で自然を感じられる場所はないイメージがあるが、それは大嘘だと思った。大河の水は一瞬たりともひとつの形に留まることは無い。なんて静かな迫力のある自然なんだろう、と思う。屋形船の回送が横を通り過ぎていった。船が作った波が水面を撫でて消えてゆく。遠くの橋を総武線の列車が通り過ぎた。鉄橋の轟音は遠くで鳴っている分にはすごく心地がいい。車内の光が水面に反射してキラキラ千葉方面へ向かっていく。働く人を家まで送り届ける流れ星のようだ。

湧き上がる感情がいくつもあった。そしてそれを共有できる相手がすぐ隣を歩いていた。この充足感はやばい、と思った。
大学生になってから、いや、高校生の時からこういうささやかな感動を味わう時はほぼ1人だった。1人で感動し、1人で浸って、1人でその場を去っていた。感動は1人でも出来る。それが自分の強みであり、ずっとこびり付いていた物足りなさの原因だった。耐えきれないほどの不足ではないが、確実に物足りなかったのだ。
その物足りなさが、偶然にも今日は埋まった。やはり僕は話したいのだと思う。目の前の何かに対して、ただ感動するだけではなくリアルタイムで話せる誰かが僕には必要なんだと思った。

思い返せば人との散歩ほど楽しさが自然発生するものはなかった。劇団の別の先輩との下北沢街ブラも、同期を新大久保の駅まで送っていった時も、作り物ではない楽しい時間が流れていたように思う。

だから誰か一緒に暇な時散歩しましょうぜって言いたくなってしまうが、それはなんか違う気がしてしまう。誘い合わせて散歩して感想言い合うのはなんか意味が違ってくる気がする。というか明らかに違う。
偶然の巡り合いとノリが、他にない楽しい散歩を作るのだろう。日取りを合わせて人に声掛けてこしらえたらそれこそ作り物。それで今日のような感動を味わおうだなんて無理な話だ。
だから、いつかまた起こるであろう偶然を待ちながら、今日の散歩の思い出を心の宝箱に新たにしまって、大切に持っておくのである。


2022.3.27


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