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#82 「私の履歴書」と『自分史』

1.「私の履歴書」、今月でシリーズ885回(884人)

 1956年3月から連載が続く日本経済新聞の「私の履歴書」。今月の池辺晋一郎さん(作曲家)の連載がシリーズ885回目、登場人物は884人になります。
(回数と人数の違いは、松下幸之助氏が2回登場しているためです。)
 884人のジャンル別(政治、経済、芸術、スポーツ、学問、その他)は、下図の通りになります。

「私の履歴書」分野別人数内訳(筆者作成)

「私の履歴書」と『自分史』”ー今回と同じタイトルで昨年2月のnote#36にも投稿しておりますので、併せてお読みいただければ幸いです。

2.池辺晋一郎「私の履歴書」(全30回)、興味を持って読了

 作曲家 池辺晋一郎さんの「私の履歴書」は本日で全30回が完結しました。
作曲家としての偉業は勿論のこと、池辺さんの関心の広さ、交友の広さに驚きながら、「事実は小説より奇なり」の思いで第1回から読み続けました。

2-1池辺晋一郎さんと立花隆の出逢いとつながり

  中でも驚いたのは、「知の巨人」立花隆との出逢いとつながりです。
全30回の中で、立花隆(本名橘隆志)のことが、3回も語られます。
 「近所のお兄ちゃん」として最初に紹介される立花隆(本名橘隆志)との出逢いと交流が、池辺さんの人生にとって、この上ない大きなインパクトと影響を与えたことが窺われます。

 すでに、戸外で走り回るようにもなっていた。が、近所の「お兄ちゃん」に、鉱石や単球のラジオ作りを教えてもらうのも楽しかった。3歳上のこの彼は橘隆志といったが、長じて健筆をふるい、「知の巨人」と呼ばれ、一昨年亡くなったペンネーム立花隆その人である。

池辺晋一郎 私の履歴書(2)「病弱な幼少期」(日経新聞2023年5月2日)

 我が家の近所の、やはり本だらけの家と行き来して、互いの蔵書を読み漁った。橘家だ。家族ぐるみで仲良しだった。一番下の女の子が僕と同級で、上級に兄が2人。上の弘道はのち朝日新聞に勤め、下の隆は立花隆というペンネームで健筆をふるった。隆志は、水戸で最も大きな書店に日曜は弁当持ちで立ち読みに行く読書少年として、地域で有名だった。

池辺晋一郎 私の履歴書(4)「小学校浪人」(日経新聞2023年5月4日)

  坪内逍遥訳のシェイクスピア全集を、すべて読んだのを覚えている。わかるわけがない。挿絵を楽しんだのだろう。小学校に入り、近所の同じような家と親しくなった。そこの女の子と同級だったが、3歳上のその兄とよく遊んだ。それが、これも前述した立花隆(本名は橘隆志)なのだが、その家の縁側で何気なく読み、ショックを受けた瞬間が忘れられない。

池辺晋一郎 私の履歴書(24)「曲名に好きな詩の一節」(日経新聞2023年5月25日)

 そして、池辺さんの「私の履歴書」の最終回の副題が「あらゆるものへの関心が力に」として締めくくられているのも、「知の巨人」ながら「兄」のような存在だった立花隆(本名橘隆志)から受けた、途方もない影響に、池辺さんは思いを致しているのではないでしょうか。

3.『自分史』の3人

 コロナ禍で自分と向き合う時間が増えたことや、会社や人との関係性にも変化が起きたことなどから、『自分史』への関心が高まって来たようです。自治体からの開催ニーズや企業研修に採り入れてみたいといった声が増えてきました。

  2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではないですが、
 ”『自分史』の3人”という意味では、次の3人が挙げられます。
1人目:橋本義夫(1902年3/13-1985年8/4):「ふだん記」運動提唱者
2人目:色川大吉(1925年7/23-2001年9/7):「自分史」生みの親
3人目:立花隆(1940年5/28-2021年4/30):「自分史の書き方」

3-1 橋本義夫「ふだん記」運動提唱者

「巨大マスコミはうるさいほど個人を取り上げるが、大部分の人を黙殺する。私はこの黙殺されている人に目を向けたい」との強い思いで、1968年から「ふだん記」運動を提唱。
 橋本義夫の理念を引き継いだ八王子の「揺籃社」は、今でも全国の「ふだん記」運動を支援しています。

3-2 色川大吉「自分史」生みの親

 昔も今もマスコミはあまり忠実に国民的経験を代表してはくれない。その経験の質の真の深みと多様さは、その人なりの動機を記した自分史でなくてはよく表象しえない。それらの貴重なドキュメントを多数あたえられて、はじめて歴史家は、ゆたかな時代の全体像を構成しえよう。

ある昭和史 自分史の試み」(中公文庫 あとがき P380 )(色川大吉著)

 歴史学者としての真摯な問題意識から、色川大吉が「自分史」に取り組んだのは、橋本義夫から少なからぬ影響を受けていたことが窺えます。

 これまで、お人よし的な常民は狭いところではバカにされ、利用されるだけで終った。だが、文を書けば「文は人なり」で、広い土地、長い時代、余を動かす、「お人よしに文を書かせたい」
 橋本さんはそう自分に言い聞かせながら、”高度”経済成長に翻弄される社会に警告を発し、人々に説きつづけていたのである、私はそのうしろ姿を拝見しながら、不遇時代の田中正造や須永漣造のことを思い、後光を感じ取ったのである。

ある常民の記録ー橋本義夫論(色川大吉)」(1974年中央公論8月特大号)

この100ページの論文を寄稿した1年後の1975年8月、色川大吉の「ある昭和史 自分史の試み」は世に出ます。この時、初めて『自分史』という言葉が使われました。

 八王子市中央図書館で開催された橋本義夫の生涯と自分史の源流展
(生誕100年記念:2001.10~2002 .12.27)で、色川大吉は寄稿文”「ふだん記」と「自分史」”を寄せていますが、「ふだん記」と「自分史」のつながりを感じさせる文章になっています。

3-3 立花隆「自分史の書き方」

立花隆は、立教大学セカンドステージ大学で、2008年から4年間「現代史の中の自分史」という授業を講義します。知の巨人と呼ばれた立花氏が、「シニア世代になったら、誰もが一度は挑戦すべき」と提唱した自分史。
 立教セカンドステージ大学では、「追悼 立花隆先生」という特別ページを設けて、立花氏の自分史の熱い指導とゼミ生の思い出を掲載しています。

4.「私の履歴書」と『自分史』~誰にもがある『自分史』

日経新聞の「私の履歴書」に載るような”功成り名を遂げた”名士でなくても、誰もに、誇るべき人生があり、それは例外なく「自分史」になります。
 そのような方々の思いを汲んで、「自分史活用」のお手伝いをさせていただきたいと、活動を続けています。






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