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#36 「私の履歴書」と『自分史』

1.「私の履歴書」:今年で66年、今月で869人目

私の履歴書」(日本経済新聞)は、1956年3月に始まりました。来月でまる66年、今月連載中の宮田亮平氏(前文化庁長官)で869人目になります。

開始当初は1週間完結で、1956年には10か月で29人が登場していますが、次第に長い連載となり、1987年から、1か月完結で1人、1年で12人の連載となって現在に至ります。

今月で869人目ですが、連載は870シリーズです。松下幸之助氏が、1956年8月(当時61歳)と1976年1月(当時81歳)の2回、登場しているためです。

政治・経済・芸術・学問・スポーツ等の各分野の、いわゆる”功成り名を遂げた人物”が取り上げられますが、個人としての生き方にも興味をそそられ、毎回関心を持って読んでいます。

869人の内訳は下図のようになります。
経済紙の為、経済分野が最多(356人:41.0%)ですが、次いで芸術(241人:27.7%)、政治(111人:12.8%)、学問(86人:9.9%)と続きます。
分野をまたがる方の分類については、異論はあるかと思いますが、どちらがメインかで判断して分類しています。(今月の宮田亮平氏は、芸術分野)

「私の履歴書」分野別人数内訳(筆者作成)

2.『自分史』が静かなブーム

いま、『自分史』が静かなブームです。コロナ禍で自分と向き合う時間が増えたから、かも知れません。「功成り名を遂げた人物」ではなくても、市井の人が生きた歴史も、一つ一つが、味わいのある、かけがえのないものだと思います。私は、自分史活用推進協議会の「自分史活用アドバイザー」としても、活動しています。

★立花隆「自分史の書き方」★

「知の巨人」と呼ばれる立花隆さんが『自分史』とは意外に思われるかも知れませんが、2008年-2011年、立教セカンドステージ大学で「現代史の中の自分史」という授業を担当しています。そして、授業を元に、2013年に「自分史の書き方」という著書を出しています。

『現代史の中の自分史』というところがポイントで、身辺雑記的自分史ではなく、同時代史の流れの中に、自分を置いて見る、「自分史+同時代史」とすることに、立花さんならではの視点があります。

日本経済新聞の「私の履歴書」を一つの目標として、①「私の履歴書」の構造分析から始め、次いで、②各自の自分史年表と同時代年表を書く、という手順を示しています。

セカンドステージのデザインになにより必要なのは、自分のファーストステージをしっかり見つめ直すことである。そのために最良の方法が、『自分史』を書くことだ(同書「はじめに」より)

昨年4月に立花さんは逝去されましたが、その死を悼み、追悼の意を表する形で、立教セカンドステージ大学同窓会のメンバーが、ホームページに活動の詳細をアップされています。

3.永六輔:「いのち」は年齢に36億を足す

2016年7月に亡くなった永六輔さんは、生前、「いのち」は、「自分の年齢に36億を足して考える」とおっしゃっていました。レギュラーだった「土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界」でも、番組の中で何度か話されるのを聴いた記憶があります。

”いまから36億年の昔、海の中のミネラルとアミノ酸から命が誕生した。
この小さないのちが進化して行き、「何とかしてでもいのちをつなぎたい」という思いが、僕たちのいのちの中にずっと伝わって生き続けている。
36億年つないできた「いのち」は、僕たちのなかにある。”(『あなたの「いのち」をいただきます』(永六輔著)より)

そして、36億年という悠久の時間に思いを致す一方で、一人一人の顔を思い浮かべながら、ひとつづつ、遡っていくと、また、違った形で、いのちの重さが感じられます。相田みつをさんの詩です。

★「自分の番 いのちのバトン」相田みつを

父と母で二人
父と母の両親で四人
そのまた両親で八人
こうしてかぞえてゆくと
十代前で、千二十四人
二十代前では ? なんと、百万人を超すんです

過去無量の いのちのバトンを受けついで
いま ここに 自分の番を生きている
それが あなたのいのちです
それが わたしの いのちです

誰からバトンを受け取り、誰にバトンを渡すのか?直接的な血のつながりを超えた、バトンの受け取り方、つなぎ方があると思います。

『自分史』は、それを気づかせてくれるものだと思います。
「私の履歴書」にも負けない、世界に一つだけの『自分史』があります。

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