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底辺とは1

底辺について、思うところを述べます。
私のnoteを読む人は本物の底辺ではありません。
安心してください。

前置き

ここで言う底辺とは、中村淳彦さんの仰っている底辺では無く、本物の底辺のことです。
中村淳彦さんは、天才・秀才・凡人の秀才以外を底辺と呼んでいますが、中村淳彦さんの定義ではありません。

木下斉さんの仰る「親戚みんな詐欺師!」というのが本物の底辺です。
中村淳彦さん本人では無く、中村淳彦さんの取材対象、貧困女子こそが本物の底辺です。

差はどこでつくか

さて、本題に入ります。
上流、中流、底辺の差とは何か。
その差はどこでつくか。

福澤諭吉さんは学問だと述べます。
学問があれば人の上に、学問が無ければ人の下になるのだと。

木下斉さんは社会関係資本の差だと述べます。
ソーシャルキャピタルやソーシャルアセットの差こそがそれを分けるのだと。

どちらが正しいというものではありません。
明治と令和の違いです。

幕末は藩論が右往左往されるたび、蟄居や投獄、あるいは、切腹や斬首がありました。
そうでなくても、低栄養や感染症により死亡率が高く、人間が死にやすかった。地道に築き上げた人脈が崩れさりやすかったのです。

一方で、平成末期は知識が古くなる速度が早く、かつ、掌に最新知識を持ち運べるようになった。
また、栄養状態や先進医療で、人間が死ににくくなっています。

ゆえに違いが出てきます。
福澤諭吉さんは同志を軽んじていないし、木下斉さんは学問を軽んじていませんが、真っ先に出るものは違ってきます。

底辺とは

さて、諸々の前提のもと、底辺とは何か、述べていきます。

底辺は無学で一人である。
本当にそうでしょうか。
頂き女子の詐欺師は無学でしょうか。
ホストと繋がる女性は一人でしょうか。

負の学、そして、負の社会関係資本が蓄積された状態が底辺である、としたほうが、令和の底辺の実態を表せると思います。

底辺にいたら、負の学からは脱却して、正の学を身につけないといけない。
カネが儲かればなんでも構わない、でなく。

だからこそ、「親戚みんな詐欺師!」の人間は、負の社会関係資本を断ち切らないといけません。
負の学のみが蓄積されていき、負のスパイラルになる一方で、底なし沼だからです。

カネだけのことを考えれば、略奪が一番良い。
逮捕されずに略奪できれば一番です。
コスパも良いし、タイパも良いです。
けれども、人間としてそれで良いのか。
そう思える皆さんは、底辺じゃないはずです。

心の底から、「え?逮捕されなきゃ良いよ!」と思う人は、もう二度と読まないでください。

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