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目の前に来るまでに

皆さん、想像してみてください。
今からお話しする空想の親子の食卓での会話です。
A家族とB家族のどちらを選ぶかを最後にお聞きします。

A家族
親「ご飯できたわよ〜」
子「は〜い」
親「それじゃあ、手を合わせて、せ〜の!いただきます!」
子「いただきます!」
親「ちゃんと野菜も食べるのよ」
子「え〜、今日も野菜じゃん!嫌いって言ったじゃん!」
親「何言ってるの、栄養を考えて料理したのよ。食べさせてあげるわ!はい!あ〜ん!」
子「いや!美味しくないもん!野菜なんて食べなくても大丈夫だもん!」
親「何言ってるの!これは今日スーパーの特売で買ってきた見た目もきれいで新鮮そうなものを買ってきたのよ。しかもあと3つしかなかったから食べられるのが奇跡なの。今日も好きそうな味付けにしているから食べてみてよ〜」
子「いや!野菜なんか虫が食べるこのだよ!絶対に食べない!」
親「それじゃあ野菜を作ってくれた人や料理をした人に失礼でしょう!」
子「知らないもん!関係ないもん!」

B家族
親「ご飯できたわよ〜」
子「は〜い」
親「それじゃあ、手を合わせて、せ〜の!いただきます!」
子「いただきます!」
親「ちゃんと野菜も食べるのよ」
子「え〜、今日も野菜じゃん!嫌いって言ったじゃん!」
親「何言ってるの、栄養を考えて料理したのよ。食べさせてあげるわ!はい!あ〜ん!」
子「いや!美味しくないもん!野菜なんて食べなくても大丈夫だもん!」
親「何言ってるの!これは見た目は確かに汚いよ。虫に食べられていたり、土がついたままで料理をするにも一苦労。おまけにこだわりの野菜だから高いし数も少ない。でもね、これが食べられるのは奇跡。今日も好きそうな味付けにしているから食べてみてよ〜」
子「いや!野菜なんか虫が食べるこのだよ!絶対に食べない!」
親「それじゃあ野菜を作ってくれた人や料理をした人に失礼でしょう!」
子「知らないもん!関係ないもん!」

とある2家族の親子の会話。
おそらく日常でこんな会話があるだろう。


どうでしょうか。皆さんはどちらの家族でしょうか。

どちらの家族も親が野菜嫌いな子どもに野菜を食べてほしいがために料理をしています。
「スーパーの特売の野菜」、「こだわりの野菜」
どちらを選びますか。

語り尽くせるか

まさおの下の子どもは先日から離乳食が始まった。
おかゆから始まり、だんだんとお野菜やお肉、お魚と硬さや形状を変えながら成長していく。

その初めての離乳食のほんとうに「ひとさじ」
確かに作るのに手間がかかる。普通にご飯を炊いて食べさせることもできず、別で作ってあげなければならない。手間と時間がかかるのは必然。
そしてあげても美味しくない表情を見るとなんだか寂しい気持ちになる。

これだけの手間と時間がかかって作ったものをこんな表情で食べるなんて、、、
と思うこともあるのではないか。

しかし、よく考えてみると
それは過去の私ではないでしょうか。

私も我が子と同じような頃に離乳食を口にしているはず。
自分ではどんな味かどんな表情かわからないが、いま親となってその気持ちが初めてわかるような気がする。
味もわからず、美味しくもないおかゆを食べさせられ、親はうれしがったりしている。

これは日常の一コマであり、子育てにおいて当たり前のようである。

しかし、この日常の一コマにこそ語り尽くせないほどの物語を話すことができます?

ほんものを知る

何言ってんだよ、まさお。
と正直な心の言葉が聞こえてきます。

実際、離乳食のひとさじととても少ない。
これで語り尽くせることなんてないだろう。
と思う方もいるはず。

でも考えてみるとこのひとさじができるまでにどれくらいの時間と人が必要だったのか。

先に見たある2家族の会話を思い出してほしい。
2家族ともに野菜を食べてもらうために工夫して料理をしている。
A家族 「スーパーの特売の野菜」
B家族 「こだわりのちょっぴりお高めの野菜」

どちらも魅力的。

安いに越したことはないし家計も助かる。これで野菜を食べてくれれば健康にも良いだろう。

と考えるのが一般的。

でも果たして子どもの将来を考えると良いことだろうか。


過日、インストラクター養成講座の中で
「私が今食べるものの物語、ロマンが好き」と先生がおしゃっていた。

私たちは普段当たり前のように食べているその食品。
その一つ一つに物語やロマンを語ることができますか?

まさおは語ることができる。はい、変人ですね。

麹を作るにしても多くの人の手を使って作ります。そして原料となる米に菌を混ぜることにより麹として食べることができる。
麹一粒を見ても、お米を作る、お米を育てる虫や空気、稲をかる機械、運ぶ車、
そして、麹の菌。

さまざまな目に見えない多くの「お陰さま」によって、
いま私の目の前にある。

これって奇跡としか言えませんよね。

しかしながら、この物語、小説のようなロマンを語るような生活を日々過ごしていないとつくづく感じる。


先に見た2家族の会話。
A家族の会話はほとんどの家庭がそうでなないか。

確かに、いまを生きる私は、いま、目の前にあるものを大切にしなければならない。
明日何が起きるかわからないとビクビクしながら暮らしているのでは、人生おもしろくない。

おそらくA家族の子どもはお野菜の美味しさに気づかないだろう。
そもそもそういうロマンを語る食卓ではなさそうだ。

「野菜を作るには多くの時間と労力が必要よ。だから食べなさい。」
自分が子どもであれば、食べない。

わけがわからない。


「ほんもの」とは何か。
やはり実際に見て聞いて匂って感じてみる。
そのお野菜を口に入れる前に五感を使ってみることが「ほんもの」を知ることだと思う。

幸いにまさおの家は田舎でまだまだ自然に囲まれている地方。
これはほんとうに有り難い。

自分でお野菜を育てることができれば良いが、現状できていない。
反対に、自然栽培や有機栽培などのお野菜を買うようにしている。
しかも、大手のスーパーではなく、なるべく小さな街のオーガニックショップ。

なぜか、
それは生産者の方の顔や名前がわからなくても、そこの空気や匂いを感じ取ることができるから。

こだわりの小さなお店の場合、こだわりの店主であることは間違いない。
店主さんがお野菜の生産者の方と親密な関係になって初めてお野菜を売ることができるのではないか。
このへんのことはわからないが、、、

こだわりの店主さんはやはり語りたい(まさおの偏見)
そして話を聞いてほしい(まさおの偏見)
さらにまさおは話を聞きたい(まさおは変人)

このお野菜に対する情熱と愛情がなければ、お野菜に失礼ではないか。
できる限りお野菜の話を聞いて買って食べるようにしている。


忙しい日々を過ごしていれば、あっという間に時間は過ぎてしまう。料理の時間であっても食事の時間であっても一昔前に比べれば減っている。
必然的に買い物をする時間も減り、時短料理になり、美味しく味わえる時間も減る。

スーパーの特売のものでなんの問題はない。決して否定はしていない。
食に対する姿勢は皆それぞれ。人の価値観を否定することはできない。

だけれども、「ひとさじのロマン」は語りたい。
私の目の前に来るまでに多くのお陰さまによる奇跡があること。
さらにその過程の話を聞くともっと語りたくなる。

ひとは何かを食べるところも1つで、出るところも1つ。
食べれると出てくる。これは変わらない。

食べる前のことをいかに語れるか。
それによって味わう時間が変わってくると思う。


2家族の会話。どちらも「ごちそうさまでした」と書いていない。
野菜を食べたのか。食べていないのか。
それは読んでくださった皆さんで感じ取ってもらいたい。

今すぐに食べることはできなくてもいい。
苦しい時間であればますますきらいなることは必然的。
この苦しい時間のほんの一瞬でも「ロマン」を語ることができるのであれば、
楽しい時間のタネをまき、お野菜の美味しさに目覚める時がいずれは訪れると信じています。

「ひとさじ」でも「大盛り」でも関係なく。


おっと、やかんがわいている。
今日はこのあたりで。ありがとうございます。







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