「人新世の「資本論」」斎藤幸平 を読んで


「マルクス」という文字を見ると食指が動いてしまう、今日この頃の読書偏向。
カール・マルクス ──「資本主義」と闘った社会思想家 (ちくま新書)佐々木隆治(著) 
でソ連の失敗した社会主義の根本的思想だという誤解が解かれ。
マルクスの思想の深さと、環境やジェンダーまで考察していた視野の広さに驚き、今一番気になる思想家となった。

「武器としての資本論」 白井聡 
も共に三書、資本論についての解釈は同じだと思う。しかし上記の二書はマルクスからの新しい構造への思想の転換への言及は無く、白井氏においては


 資本制のシステムからの脱却、資本制の包摂から自分自身を剥がすのは、自分自身が主体となるように、感性に素直になり、基本的な尊厳を獲得すること。

と、なんともロマンティックな言葉で締められたのには、少し落胆した。

しかし本書はマルクスの思想の最先端の研究から現在おかれている地球規模での気候変動の危機から脱却するべく、具体的な考え方と行動を示唆してくれる。
つまり他書と違うのは、気候危機という差し迫った問題にマルクスの思想で演繹したことだろう。
タイトルの「人新世」の定義は

「人新世」(Anthropocene)と名付けた。人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味である。

それが気候変動である。そしてそれを招いたのが資本主義である。さらに資本主義を考え抜いたのがマルクスだ。

まず本書はノーベル経済学賞を受賞した論文、パリ協定、SDGsらは経済成長を優先して環境問題を先送りにしているに過ぎないと批判する。それではなぜ経済成長を優先することはいけないのか。それはグローバル化された現在の経済圏での成長には「グローバル・サウス」といわれる、南側の国々の自然や労働力の犠牲が必要だからだ。

なぜそのような構図になるかというと、それが資本主義のシステムだからだ。マルクスの言うプロレタリアートとブルジョワジーの関係、資本家と労働者が、現在は地球規模で俯瞰すると、豊かな消費国(帝国的生活様式)である北側諸国(中核)と低賃金で搾取される南側諸国(周辺国)となったのだ。

そうやって周辺国から搾取してきたが、その中の中国やブラジルが成長してきて、責任を転嫁させる余地が狭くなってきた。つまり搾取して成長するという資本主義のシステムが飽和状態になってきている。

もう一つ資本主義の特質である分業にはじまる「効率化」は

そもそも技術がいくら進歩したところで、効率化には物質的限界があるのだ。効率化が進んでも、半分の原料で自動車を作れるようになるわけがない。

そして効率化も環境に負荷をかける。例えば省エネ化された大型テレビが普及することによる電力の増加のように。

つまり経済成長と環境負荷のデカップリング(分離)は出来ないのだ。

かと言って、できるわけがないが、原始的な生活に戻ればいいという問題ではなく。グリーン・ニューディールのような、太陽光発電や電気自動車への切り替えなどやインフラの省エネ化に対する多大な財政出動を要する政策も必須だが、それによる経済成長の上昇と拡大を望むのではなく

グリーン・ニューディールが本当に目指すべきは、破局につながる経済成長ではなく、経済のスケールダウンとスローダウンなのである。

そして筆者は気候変動に「適応」するのではなく「抑止」するべきだと訴え、強く提唱するのは

脱成長」だ。

「抑制」は個人的レベルで言えば「足るを知れ」老荘思想のような「中庸」か。「脱成長」は単にGDPを数値的、量的に減らすことではなく、質へと転換することで平等と持続可能を目指す。

さらに筆者が提唱するのはコミュニズムの「コモン」=「共」による資本主義の超克だ。個人的にコモンで思い出すのは、マイケル・サンデルらの政治思想の一つのイデオロギーである「コミュニタリアニズム」。それを政治だけではなく世界の構造を「コモン」にすることだ。コモンが目指すのは

「ラディカルな潤沢さ」だ。

このあたりからマルクスの思想がパラタイムシフトする変遷の過程の模様が面白い。

それではどうすれば資本主義を超克するようなコモンができるのか。一つの方法として「エコ近代主義」があるが、「エコ近代主義」の唱えるプロセスにおいて、既存の議会制制度を通して実現することは政治エリートなどのプロに丸投げするという素朴な手段であり、他律的なので参加者の主体的意識を損ねてしまう。

それではどうすればいいのか。

その端緒は社会運動にあるという。フランスの「黄色いベスト運動」から政治が動き市民会議が開かれ、市民の主体的な意見がすくい上げられた。その他、バルセロナの非常事態宣言やデトロイトの復活などの具体例がいくつかある。

社会運動の重要性について、社会学者マニュエル・カステルは、正しく次のように述べている。「社会運動なしには、いかなる挑戦といえども国家の制度(中略)を揺がすほどのものを市民社会から生みだすことはありえない*12」
斎藤幸平. 人新世の「資本論」 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.3111-3114). Kindle 版.

しかし取り上げられている事例は自らの生活や生命が逼迫された上でおきている。やはりそこまでの危機感がないと市民は動かないものなのか。

私の好きな言葉。前出の「中庸」もその一つだが、「メメント・モリ」=「死を想え」がある。誰にでも訪れる「死」という期限を意識することにより、生き方の逆算ができ、人生に本当に必要なものを選別し、今を大切に生きることができる、という意味で捉えている。哲学で言えばハイデガーの「先駆的決意性」か。それを個人的な命ではなく、「世界、地球の命」に置き換えて捉えてみるべきなのでは。そしてもうひとつ哲学的に言えばカントの「定言命法」のように「その行動、その商品は資本主義の成長に加担するのではなく、環境保護に貢献し脱成長となるようなものであるか」と各自が自分に問いかけるような生き方をするべきなのではないか。などと思うが難しいだろう。

っと諦めてはいけない。筆者も「脱成長」は簡単なことではないと熟知している。しかしグレタ・トゥーンベリがたった一人での学校ストライキから始まったように。動かなければ変わらない。

ハーヴァード大学の政治学者エリカ・チェノウェスらの研究によると、「三・五%」の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わるというのである*1。
斎藤幸平. 人新世の「資本論」 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.3800-3803). Kindle 版.

グレタ・トゥーンベリも筆者も「Z世代」。環境に対する意識が高いという。これからは彼ら、彼女らが台頭し世界を動かしていってほしい。ツケは必ず後世代に回ってくるのだから。


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