成果主義の次はジョブ型雇用?定着するか掛け声倒れで終わるのかの境目は
コロナ禍で在宅勤務が増えて労働時間管理が難しくなったことなどから、ジョブ型雇用への関心が高まっているようです。成果で評価するという点では、それって四半世紀前に「成果主義」といって取り入れたんじゃないの?と思わぬでもないのですが、目指す方向として理解はできます。
一方で労働時間管理とか賃金体系の柔軟性について、我が国においては工場労働者の保護のために労働規制が整備されてきた歴史的経緯もあって、なかなか柔軟に運用することが難しい実情もあるようです。法律もさることながら判例法理や雇用慣行として続いているケースも多く、そう簡単に法改正による規制緩和で上書きできる話でもなさそうな気もします。
仮にコロナ禍が続いて知的労働者の在宅勤務が「新しい当たり前」となった場合に、この「ジョブ型雇用」とやらも「新しい当たり前」となるのでしょうか。それとも「成果主義」が辿ったように、何となく制度として運用しているけれども、ちゃんと運用できてるの?と首を傾げてしまう結果になるのでしょうか。
ところで先に白状しておくと私はロスジェネです。学生時代にネットバブルで最初の会社に潜り込んだので、就職氷河期を経験したことこそなかったのですが、ネットバブルが崩壊してからは自分の人月単価を何倍に上げても会社の業績低迷で年収がさっぱり上がらず、なぜ前より何倍も稼いでも給料が上がらないんだ?周りのサボってるオッサンたちよりこんなに頑張っているのに!と理不尽に思いながら人事制度の本を濫読して、上司に論戦を挑んだり、株主総会で社長に質問する、もし今の自分にこんな部下にいたらと考えるとゾッとしてしまうほど面倒な若者でした。さすがにストックオプションを持った社員が内部情報を以て株主総会で質問するというのはやり過ぎだったようで、翌年からは株主総会の参加には有休取得が必要というルールができました。それでも社員による株主総会への出席や質問そのものは禁止しない、今にして思えば素晴らしくリベラルな会社ですね。だいたいオプションを持ってたところでよくよく考えたら株主じゃないのに自分は何をやっていたんだ?閑話休題。
それから紆余曲折あって外資系大手ソフト会社に行ったのですが、そこはジョブ型雇用で所謂Job Descriptionがあって、目標管理制度なんかもしっかりとしていました。最初はマーケティングで入ったのですが半分趣味で渉外活動を手伝っていたところ、翌年の組織変更で部長級に抜擢されました。入社時の私の職位は係長級で、じゃあ部長級になったらいきなり給料が上がるかというと、そんなこともないんですね。社内で引き抜きあって全体の給与水準が上がっては困るので、一旦は同じ給料で異動させ、職位に応じた働きをしたかどうか見極めて徐々に上げていく。職位は給与水準の上限を決めるけれども、その職位についたからといってポンと給料が上がるとは限らない運用をしていました。後から振り返れば、なかなか合理的な仕組みです。
この会社に入ったとき、とても不思議で解き明かしたいことがありました。前にいた会社は当時いつ潰れてもおかしくないカツカツのキャッシュフローで、自分が頑張って給料の何倍も稼がなければ、会社が潰れてしまうというプレッシャーがありました。それでも働かない同僚がいたり、どんどん辞めてしまったりしていたのです。後から入った会社は業績的にはどう考えても経営が盤石なのですが、みんなよく働いているように見えました。当時まだ人事評価で下5%はクビにするというルールが残っていて、業績評価が悪いとクビになるプレッシャーも多少はありましたが、そのことよりも働くことを通じて自分の能力が高まる、働けば地位と報酬の両面で報われると楽観的に信じられたことが大きかったように思われます。みんなマクロの労働分配率や、自分が頑張ったかどうかで会社の業績をどこまで左右するかではなく、自分の頑張りに対する周囲からの承認と小さなフィードバックが重要で、そうした「頑張るための小さなフィードバック」を提供するためには、安定的にそれを実施できる潤沢な手元キャッシュフローと、成長による組織の規模拡大、重要な仕事を任せることで努力に報いるためのポジションの用意が最も効くという身も蓋もない現実に気付かされました。みんな何となく給料が上がっていれば納得しちゃうけれども、もし給料が下がるようなことがあれば厳しく理由を問うし、努力が報われるとは限らないと感じてしまうとモチベーションを維持することが難しくなってきます。
給料が上がらず燻っていた若手時代、日本でも解雇規制が撤廃されて労働時間規制もなくなり、メンバーシップ型雇用からジョブ型雇用に切り替わったならば、自分は能力と稼ぎに見合った適切な給与水準で遇されるのではないか?という目論見がありました。しかしながら、みんなが営業から実際の業務、顧客による検収対応に至るまで全てを通しでやる訳ではないんですね。ひとつひとつの売上に対して、誰がどこまで貢献したのかを厳格に切り分けていくことは難しいし、自分の売上貢献度を把握しやすいプロフィットセンターとそうでないコストセンターと、大きなバラツキがあります。取っ払いで報酬を受け取りたければ個人事業主になればいい訳ですが、そうすると失敗できないからチャレンジの小さな、自分が確実に始末できる仕事ばかり選んでしまうかも知れない。会社の看板、バックオフィス、切磋琢磨し時には手を差し伸べてくれる仲間、そういった環境に身を置いた方が、結果として長い目で見たときに自分の価値を高めていくことに気付きました。
そして振り返って自分が腹を立てて人事制度について勉強したり、上司や社長に突っかかったりしていたのは、必ずしも会社の決算書を見て労働分配率の低さに憤っていた訳ではなくて、まず頑張って結果を出したところで自分の給与が上がらないことに対して焦燥感を抱き、会社が上場して大きくなって、ピッカピッカの履歴書の人を高い給料で雇って、大した成果も出せないまま会社のカネを浪費して辞めていく「なんで自分よりアイツが?」という理不尽に憤っていた訳です。だからせめて自分の給料が少しずつでも上がり続けていて、会社が上場して履歴書こそピッカピッカだけど、何をやっているか分からない人たちが山ほど入ってくるようなことがなければ、それほど不満を抱くこともなかったんじゃないかと今にして思います。
私に限らずおおよそ人間というのはそういうものらしく「The Organization Man」で描かれていた1950年代中盤、General MotorsやIBMといった往年の米国を代表する大企業は終身雇用と内部昇格によって官僚組織を運営し、日本はそこから学んで戦後に入って段階的に定年までの有期雇用を確立しました。米国でその流れが途切れたのはオイルショックや日本の擡頭によって経済が停滞した1970年代で、低成長時代に終身雇用・年功序列のままでは組織を維持できず、ピラミッドの下にいる者が出世できない経済状況になったことから、経験に基づく内部昇格ではなく職務に相応しいスキルに基づいて人を採るように転換していった訳です。米国とて最初からジョブ型雇用だった訳ではなく、みんなの給料を少しずつ上げていき、経済拡大の中で経験を積んで内部昇格できるキャリアパスを描けなくなった中で、苦肉の策として雇用の柔軟化とジョブ型雇用への転換を進めてきたのでしょう。企業が内部昇格で管理職を育てにくくなったことを受けて、この数十年でビジネススクールの社会的地位も大幅に上がったと聞きます。
日本は資本をはじめ様々な分野で米国の圧力によって自由化していった流れの一環で雇用を流動化させるための規制改革を進めてきました。バブル崩壊後の経済低迷を受けて経済界は低成長時代に合わせて総人件費を抑制するため、単純労働者の雇用を切り捨て、高度専門人材は有期雇用の業績給に切り替えて、コア人材の終身雇用・年功序列は維持しようとしました(日経連「新時代の日本的経営」1995年)。成果主義の導入も当初は年功序列型の給与カーブを緩和して、優秀な中堅層を昇給させるために導入されたケースが多いように思われますが、紆余曲折を経て、それなりには進みました。
真面目な労働者にとって、仕事を頑張れば成果が出て、経験を積んで自分の能力が高まり、より多くの価値を生んで、周りから必要とされ、自分の給料が上がっていくのが、分かりやすく理想的な正のスパイラルです。こうした流れは好景気の間や成長企業の中でそれなりに成り立つこともありますが、必ずしもそんなことばかりではありません。コロナ禍で頑張っても売上が経たない業種もありますし、経験を積んで自分の能力が高まったところで、例えばその仕事が自動化されたり他の国に移ってしまったならば、周りから必要とされなくなったり、給料が下がってしまうこともあります。
自分が自由に仕事を選ぶことができたならば、自分で社会の変化を読んで、転職を繰り返すことで価値を維持する、いわゆる自己責任のキャリアデザインも考えられますが、コロナ禍にあって、そうしたチャレンジの機会そのものが、どうしても限られてくるでしょう。また日本企業でのキャリアは多くの場合、自分で掴み取るものではなく、まだまだ会社から与えられるものという考えも残っています。そういった人事の仕組みの根っこを弄らないまま、それっぽくJob Descriptionをつくって、ジョブ型雇用だといってみたところで、いきなり米英型の雇用構造となることはないのではないでしょうか。何故なら四半世紀前に成果主義の導入で苦しんだように、そのルールをつくって回している管理職層の多くの人たちが、職務定義や業績評価に慣れるまで時間がかかるし、外部労働市場との流動性が十分にない限り「ごっこ」で終わってしまうかも知れないからです。
ところで日本企業に「ジョブ型雇用」を強いる圧力は本当にコロナ禍だったのでしょうか。コロナ禍で短期的に雇用が流動化するかというと、非正規雇用を中心として失業が増え、多くの企業は雇用を手控えつつ融資や助成金を活用しながら雇用を維持することになります。足元で採用に困っている訳でもなく、むしろ新卒採用を絞り込み、ピンポイントで必要な職種を育てられない前提で「ジョブ型雇用」として有期で雇用しようとしているかも知れません。しかしながらコロナ禍からたったの数ヶ月、従業員の数十年の人生を考える人事部の仕事としては動きが早過ぎるようにも感じます。むしろ昨年から顕著に見られた新卒採用の賃金上限を引き上げる動きの延長線上で、高度人材を取り巻く労働市場のグローバル化によって、日本企業が買い負けていることに対する危機感ではないでしょうか。これまでの人事制度や給与テーブルで支払うことのできない給与を払ってでも、これからの業態転換に必要な高度人材を採らざるを得ない、そのための制度改革を進めていたところ、たまたま「コロナ禍」が襲ってきて、会社全体で「ジョブ型雇用」にも通用する成果管理を導入するきっかけができたのかも知れません。
しかし、これはとても多難な船出となるでしょう。何故なら従業員の努力に業績がついてくるのは、好況期や成長段階の企業であって、コロナ禍にあって大企業の中で、努力や成果とリニアに連動するような業務など存在せず、非連続な変化の中で、持ち場持ち場の中で様々な試行錯誤を繰り返すより他ないからです。そのために使命なり職務を定義して、自律的に働いてもらうことは確かに必要なのですが、それを成果で測るなんてことが、本当に円滑に進められるのでしょうか。しかしながら米国において不況期に「ジョブ型雇用」への転換が進んだことを振り返るならば、こういった経済危機に直面して働き方のコンセプトを変えようとする営為そのものが、まさに必要とされているのであって、試行錯誤の先に米英型の「ジョブ型雇用」ともまた違った、これからの新しい働き方が創出されることは十分あり得ることです。
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