第1回_フロア

開かれた場所にむけて:コンサートの企画をするうえで考えていること②

前回に引き続いて、僕がアミーキティア管弦楽団(以下、アミオケ)を企画するうえで考えている三つの方向性について、お話します。
改めてその三つとは、
①企画重視、音楽を届けるメディアとしてのコンサート
②開かれた場所
③社会装置としてのコンサート

で、今回は②について書きたいと思います。

市民オーケストラとは

僕の企画するアミオケは、市民オーケストラです。僕たちはプロではありませんので、普段は音楽以外の仕事をして生計を立てています。「日曜音楽家」などといわれたりもします。多くが子供の頃、特に中学校や高校から楽器をやっていて、大人になってからも音楽活動を続けたくてオーケストラをしています。中には大人になってから音楽の楽しさに目覚めて音楽活動をしている人も少なくなりません。

日頃出会う人たちに「オーケストラをやっています」なんていうと、別世界の人のように思われることがよくあります。僕たちからすればたまたまやりたいことがサッカーじゃなくてヴァイオリンだった、という程度のことなのですが、やはりイメージからして、そう思われるのも無理からぬことでしょう。ですので本題に入る前に、少し市民オーケストラの「生態」についてざっくりと書いておくことにします

日本には、1,000を超える市民オーケストラがあると聞いたことがあります。ただしこれは厳密な調査に基づいた情報ではないので、今の時点では僕にとってはあくまで噂です。この数字の確からしさは措いておくとしても、僕の実感でも確かに「多い」と思います。関西には僕が知っているだけで30団体くらいあるうえに、おそらく毎年2、3団体ずつ結成されているのではないでしょうか(もちろん休止する団体もあります)。そしてオーソドックスな曲を演奏しようと思えば50人ほどが必要です。それほど(のべの)音楽人口が多いということで、このこと自体は喜ばしいことだと思います。

ところで市民オーケストラには、大きく分けて二つのタイプがあります。簡単にいえば、固定の団員がいるタイプのオーケストラと、いないタイプのオーケストラです。固定の団員がいるタイプのオーケストラでは、入団 / 退団という制度があり、形式上全団員がコンサートの計画を立てることに関わっています。またほとんどの団員が、コンサートやオーケストラ自体の運営に関する何らかの役割を持っていて、規則正しい行事としてコンサートが開催されていきます。

その一方で、固定の団員がいないオーケストラでは、特定の誰かがコンサートの企画 / 計画を立てて、それに賛同する参加者を集める形でコンサートを開催しています。この場合、基本的に運営をするのは企画者集団であることが多くなります。コンサートごとに参加者が集まる形をとるので、論理的には入団 / 退団という制度は存在しません。

このタイプのオーケストラが増えてきたのは、関西ではゼロ年代後半だったような気がします。当初このタイプのオーケストラは「一発オケ」と呼ばれていました。文字通り、やりたいコンサート「一発」でオーケストラが終わるからです。ただ、ある時期以降、こうした「一発オケ」が一発で終わらないケースが増えてきました。コンサートごとに参加者を集めているのに、同じオーケストラの名前でコンサートが第1回、第2回とナンバリングされることが多くなってきたのです。また、最近では、事前練習をせずに一日だけ集まってお客さまを入れずに合奏する、音楽家のためのイベント(これは僕たちの業界用語では「初見大会」と呼ばれています)が京都で定期的に開かれ、そこが「一発オーケストラ in 京都」と名乗り、一定程度その名前が定着してきています。こうしたことから、僕は「一発オケ」という名前を使わず、固定の団員がいるタイプのオーケストラを「カンパニー型」、いないタイプのオーケストラを「プロジェクト型」と呼んで、区別しています。

そして僕が企画するアミオケは「プロジェクト型」に当てはまります。そのため参加者のことは「団員」と呼ばずに「奏者」と呼ぶことにしています。なお、すでにお気づきのように、コンサートごとに参加者が集まるということは、音楽家は余裕があれば複数のオーケストラに出演することが出来、実際にそうなっています。もっとも、余裕がなくとも、そもそもこれだけのコンサートが開かれていれば足りない楽器が出てくるのも当然で、特に弦楽器には「引っ張りだこ」の音楽家も少なくありません。ですので「オーケストラの数×一回のコンサートに必要な演奏者の数」の単純計算で音楽人口が割り出せるわけではありません。それにプロジェクト型のオーケストラはやはり存続が不安定です。数年越しに復活ということもあります。なので市民オーケストラの数を数えるというのは、とても大変で難しい作業になります。

「場」を作ること

少し丁寧に市民オーケストラの事情を説明したのは、僕たちの集まり方(ダイナミクス)についてイメージを持ってもらいたかったからです。すでに書いた通り、僕たちは普段は生計を立てるために音楽以外の仕事をしながら、平日の夜や土日祝日に練習をしています。そして本番は、ほとんどの場合土日祝日に開催されます。それはもちろんお客さまに来てもらうためですが、やはり平日は仕事であるという都合の方が大きいと思います。

いうまでもないことですが、普段仕事をしながら練習をして、本番に向けて準備をするということは、決して楽ではありません。それでも続けることには、それだけ演奏がしたいという強い思いがあり、また仲間がいるオーケストラがその人にとって「居場所」になっているということがあります。

この「場」を、関心があるすべての人にとってよりよいものにしていきたい。これが僕がアミオケを運営するモチベーションのひとつです。つまり本稿で書くことになる二つ目の方向性とは、市民オーケストラを運営するうえで出てきたことです。たとえばアミオケのコンサートには、そのときがオーケストラが初めてだという人が、実は結構います。また、しばらく楽器を触っていなかったのだけれども、もう一度やりたい、という理由で参加してくれる人も少なくありません。引越してきたばかりで演奏する場所を探していた人もいました。

こうした人たちに参加してもらうたびに思うのは、近年のワークスタイル / ライフスタイルの多様化から、従来のような形で気兼ねなくオーケストラができるような人ばかりではなくなっているのではないかということです。とはいえ、まだ僕たちができることは極めて限定的です。おそらく本丸は練習や本番の日程・時間帯をもっと柔軟に設定することですが、現時点ではとても難しいような気がします。そもそも40人や50人が必要な時点で、いくつもの困難をクリアしなくてはならないはずで、予定が多数決的に決まってしまうことは一定程度避けられません。それでも「プロジェクト型」が増加してきたことの背景には、固定で団員で居続けることは難しいけれども、参加できそうなコンサートには参加したい、という音楽家たちのニーズがあったからだと思います。この意味で「プロジェクト型」は至って現代的なオーケストラスタイルです。

なお、多様なワークスタイル / ライフスタイルに向き合った素晴らしいオーケストラとして僕が注目しているのが、西宮きらきら母交響楽団という市民オーケストラです。ここでは、子供を連れたお母さんたちが、子供を抱いたまま本番に出演するという、(いい意味で)前代未聞のオーケストラです。昨今、ようやく職場環境におけるダイバーシティについて目が向けられるようになってきました。しかしながら、子を持つ親が排除されることは、職場だけではなく、趣味や社会団体でもあり得ます。どんな状況に置かれても、音楽をしたいという思いはみんな平等だ、という強い理念が、このオーケストラからは見て取れます。またそのような理念は決して「子を持つ親」という属性に限る話ではありません。このオーケストラはその理念を出発点として、あらゆる垣根を取り払おうとしており、僕はこのオーケストラの取り組みにとても学んでいます(なおこのオーケストラの代表の馬場さんと以前「音楽活動とダイバーシティ」というテーマでトークイベントを開催しました)。

さらに、言語の問題があります。現在は事務局を再編したばかりで一部業務が止まっていますが、ホームページやFacebookはこれまで、日本語・英語・中国語の三言語で情報を発信してきました。そしてここでの関心の中でいえば、第3回演奏会では、参加者募集要項を三言語で公開していました。今日、たとえばこれだけ留学生をはじめとする外国語話者が増えてきている中で、おそらくその中にも音楽人口が一定数いるものと推測できます。しかし、その層が僕たち日本人 / 日本語話者と混じってコンサートを作る様子は、少なくとも関西ではあまり聞かれません。僕はそうした人たちとも一緒にできたらきっと楽しいだろうなと思って、要項を作りました。もちろん実績はなく、今後本当に参加者が現れた場合には、不慣れながら対応させてもらおうと思っています。

未就学児歓迎について

これまでは参加する音楽家について書いてきましたが、本稿のタイトルである「開かれた場所」というのには、参加者だけでなく、お客さまや地域社会にむけても「開かれている」という意味があります。

そしてここではアミオケがある意味でこだわってきた「未就学児歓迎」について書きたいと思います。とはいえ「未就学児歓迎」であればさきほど紹介した「西宮きらきら母交響楽団」さんのほうがずっと経験を蓄積されてきているはずです。ですので、これまでやってきたこと、というよりかは、その方針の意図について書いていこうと思います。

2017年9月18日、アミオケの第2回演奏会がありました。ブラームス、ブルックナー、シュトラウス二世という、19世紀後半に同じウィーンの街で活躍した3人の作品を取り上げて、お客さまを当時のウィーンにお連れする、というコンセントのコンサートでした。タイトルはその名も「時間旅行のコンサート」です。

このコンサートで演奏したブルックナー作曲「男声合唱と管弦楽のための声楽曲『ヘルゴラント』」という作品は、1987年、当時からちょうど30年前に大阪フィルが故朝比奈隆先生の指揮で演奏して以降、ほとんど演奏されてこなかった、ブルックナーファンでもなかなか生で聴くことのないものでした。いわば、超マイナー曲だったわけです。コンセプト自体はそれなりにかわいらしく、1曲目と3曲目はとってもメジャーな作品だったので、全体的に子供から大人まで楽しめるようなイメージを持ってもらうことはできました。ただ聴きに来たお客さまの中には、ブルックナーの超マイナーかつ迫力のある合唱曲に、意表を突かれた方も多かったはずです。そしてやはり「演奏はとてもよかったが、未就学の子供たちに向けたものとしてはいかがなものか」というような感想をいただきました。まあ、怖い曲ではないと思いますが、子供が置いてけぼりにされているといわれれば、そうかなとも思います。多くの場合未就学児をお迎えするコンサートといえば、カルメンや花のワルツといった楽しい作品たちが並ぶことが多いからです。

ですが子供に向けたコンサートとは、果たして、さも楽しそうな曲たちが並ぶようなものだけを指すのでしょうか。もちろん僕はそうしたコンサートが良くないなどというつもりはありません。多くの親の気持ちになれば僕だってそうしたコンサートに行こうとするはずです。けれども、それはもしかすると親の方が「そうしたコンサートに連れていきたい」「子供も喜ぶはずだ」と思っているからだということはないでしょうか。僕は、何が子供のためになるかなんて、分からない場合もたくさんあると思っています。そうであればきっと、子供のうちにいろんな経験をすることが大切になってきます。そうである中で、世の中の「子供向けコンサート」には、あまりにも楽しげなタイプのコンサートばかりがあふれていて、それ以外の経験をする機会が減っているのではないかな、と思うのです。はっきりいえば『ヘルゴラント』なんて、大人でも意味不明だと思う人はいるのに、子供からしたらもっと意味不明です(ちなみに歌詞の意味はちゃんとあります)。でも、幼い頃に行った、うっすらと覚えているコンサートをあとから調べてみたときに、その時の曲が『翼をください』でも第九でもなく『ヘルゴラント』だったと知ったとき、その子供は誰も何も感じずにいるでしょうか。誰も何も考えずに済むでしょうか。もちろんその子供に音楽家になってほしいわけでも、ブルックナーファンになってほしいわけでもありません。でも、それがまた別の興味関心に移る可能性は十分にあります。通常の生活をしているだけでは受けなかったであろう刺激を人に与えることは、音楽を含めたアートの大切な役割です。つまり「開かれた場所」とは、入場できるという意味で子供に開かれているという以上に、子供の未来にむけて開かれているのです。

共生社会へのヒント

またこのコンサートでは、こうした感想も寄せられていました。これはもしかすると、ブラームス1番の第4楽章で、トロンボーンの見せ場であるコラール(人の声でいうところの厳かな合唱を楽器で表している場所)のときに、子供が声を上げたことに向けられていたのかもしれません。

「たしかに、静かに聴きたい人にとって、子供の声は辛い部分がある。けれども私には、物知り顔で意味もなく演奏中に唸り声でつぶやく大人の方がよほど迷惑だ」(文章を一部簡略化しています)

僕たちが小さな子供をお迎えする以上、演奏中に「ノイズ」が入ることは避けられません。そして、会場にはいろいろな事情や動機で足を運んでくれている人たちがいます。中には従来のように、静かにクラシック音楽を楽しみたいという方もいます。特に滅多に聴けないブルックナーを楽しみにしていてくれていた方もいたことと思います。僕はそうした人たちの楽しみを奪うことをしたいわけではありません。全員が子供のために奉仕しろ、というのは暴力でしかありません。そしてこの感想を寄せてくれた方も、内心では絶対に気になっていたはずです。

これに対しては、シンプルに会を分けるべきだという答えが出てきそうです。それはそうだと思います。ですので僕がやろうとしていることは欲張りなのかもしれません。けれどもこの、ある空間の中で、様々な背景を持った人が一緒にいることができる、そして願わくばそれぞれが幸せになることができるためには何ができるか、という問いは、そっくりそのまま今の僕たちの社会が抱えている課題ではないでしょうか。僕は「開かれた場所」を作りながら、こうしたこと――つまり「共生社会」への道筋――にも向き合っていきたいと思っています。

今では、小さな子供を連れたお客さまへのお声掛けの仕方について、少しずつマニュアルが完成してきています。また、子連れに限らず、障碍をお持ちの方などをお迎えするときのノウハウも蓄積していっている途中です。ポリティカリー・コレクトだからという単純な理由ではなく、本当の意味でより多くの人に楽しんでもらえるコンサート作りを目指して、これからもたくさん学んでいきたいと思います。

新しい世界に「開けている」オーケストラ

最後にもう一度、参加してくれる奏者の話をしたいと思います。アミオケではさきほど紹介した第2回演奏会以降、ホール以外の場所で演奏する機会が増えてきました。たとえば過去二回、ココルームさんと共催で開催したコンサートでは、大阪市西成区の釜ヶ崎にある商店街の一角で、地元の人びとと一緒に歌ったり演奏したりしました。またときには演奏旅行をすることもあります。次の1月に控えている「けいほく うたと未来コンサート」では、参加者は京都駅からバスで1時間半のところにある山間地域を一泊二日で訪問して演奏します。

これらのプロジェクトでは、普段生活している中ではあまり訪れることがないであろう地域で、そしてあまり出会うことがないであろう人びとと一緒にコンサートをすることを意識しています。こういったことをメイン事業として行っている市民オーケストラはあまりありません。それはまさしく、アミオケのコンセプトである「音楽で、いろんな世界に出会おう。」を体現する取り組みだと思っています。

市民オーケストラでは、個別で違いはあるものの、ライフスタイルがお互いにとても近い人同士が、団員として、奏者として集まっています。ですので、いかに僕たちが職場以外の場所を持っていたとしても、通常の音楽活動の中では、やはり同じような人たちとしか出会うことがありません。そして、家庭と仕事に加えて音楽も、となると、かえって一層、それ以外の出会いがなくなってしまいかねません。

そんな中で、多様な世界や価値観に、僕たちがやっている音楽を通してもっと触れていきたい。そうすることで、僕たち自身の表現の幅も広がっていくはずだ。それが、僕が先ほど挙げたようなプロジェクトを実施している理由です。その意味でアミオケは、新しい世界に「開けている」オーケストラでありたいと思っています。楽器が人生を豊かにしてくれるのと同時に、楽器で人生を豊かにする、そんな市民オーケストラを目指したいと思います。


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僕たちは日ごろあらゆる場所で、「論理」に巻き込まれながら生きています。集団の論理、資本主義の論理、競争の論理など。それらは多くの場合、その論理に沿うことが出来ない多くの可能性を排除していきます。つまり可能性を「閉じている」のです。そして僕たちは普段そういったことに気をつけているつもりでも、ふと気を抜いた瞬間にたちまち「論理」が現れ、その場が閉じていきます

だから「開かれている状態にしておくこと」というのは、常に意識していないと実現できません。いや、意識していても難しいことの方がほとんどです。それでも、その「場」が関わる人たちにとって少しでも良いものとなるように、自分ができることを中心にして、アンテナを張り続けていくことで、今までになかったオーケストラが出来上がると、僕は信じています。

このたびも最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

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