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メディアとしてのコンサート:コンサートの企画をするうえで考えていること①

以前、僕の企画するアミーキティア管弦楽団の再始動についてnoteに書きましたが、そこで表明していた三つの考え方について、もう少し詳しく書いていきたいと思います。
その三つとは、
①企画重視、音楽を届けるメディアとしてのコンサート
②開かれた場所
③社会装置としてのコンサート

で、今回は①について書きたいと思います。

なぜその曲を演奏するのか

僕の友人にはオーケストラやクラシック音楽を聴きに行く人はあまりいません。オーケストラをやっています、なんていうと、別世界の人間であるかのような視線にさらされます。無理からぬことだと思うのですが、プロフェッショナルであれアマチュアであれ、音楽の世界にどっぷりといると僕たちは、その特異さに少し鈍感になってしまうところがあります。

例えばコンサートに行き、ベートーヴェンやブラームスが並んでいることは、僕たちにとってあまりに馴染み深いことです。ベートーヴェンが3番や5番であれば「王道だな」と思い、4番であれば「通向きだな」と思います。しかし、どちらであっても、なぜ今日はその曲なのかについては、実はそれほど深い理由がないことがほとんどです。震災チャリティコンサートであればレクイエム(鎮魂歌)を選ぶなど、理由があって曲が選ばれることはありますが、たいていの場合は、演奏者側がやってみたい曲だったりします。

これは、あまりクラシック音楽を聴きつけない人からしたら、置いてけぼりの要因になっているのではないかと思うのです。もちろん演奏が表現行為であり、その限りで演奏したい曲を選ぶことには全く問題はないし、とりわけアマチュアはそれをするためにコンサートを開いています。

ですが、コンサートは聴き手のためにも存在しているし、潜在的な聴き手にも開かれている必要があるはずです。「今度の曲は知らないけれども聴いてみよう」という好奇心のあるおおらかな人にとっては、さほどこのことは問題はないでしょう。けれども、そうした人が減ってきているのが今の社会です。その中で僕たちが、ある人びとに自分たちのコンサートに来てもらいたいと思ったときに、温情以外の動機で来てもらおうとするならば、自分たちが行おうとしていることについてを、ある程度の固さをもって説明することができるというのは、とても大切なことだと思うのです。つまり、今日のこのプログラム(曲)は、こういうことをしたい/伝えたいから選ばれたのだ、と(ある程度)きちんといえるということです。

それは、音楽の意義でもなければ、演奏の意義でもありません。コンサートの意義です。コンサートとは、第一に僕たちが表現したい内容をあらわしていく場所であると同時に、それは聴きに来る人びと、会場、その会場のある地域、そして時として行政や企業など、あらゆるアクターの存在があって成立するものです。このことが企画の前提に入っていないコンサートは、音楽が好きな人以外の人びとにとって、そのコンサートに行く理由を見つけることがとても難しいはずです。ある人にとって個別のコンテンツとしての曲に親しみがなく、演奏者にも親しみがないのであれば、その人がそのコンサートに行こうと思えるのは、「コンサートが何をやろうとしてるのか」という、コンセプトと言葉があるかどうかだと思うのです。

これは「編集」の考え方と近いと思っています。個別の作品や演奏を、ある一定の意味やコンセプトにしたがって「編集」することで、統一的な意義(メッセージ)が浮かび上がってくる。コンサートを企画するということはこういうことだと、僕は思っています。これは現代アートでいえば、「キュレーション」に当たるのではないかと思います。

間違ってほしくないのは、「コンセプト」は「テーマ」とは違うということです。例えば、「ドヴォルザーク没後100年」というのは、「テーマ」であっても「コンセプト」ではありません。「ドヴォルザーク没後100年」ということでドヴォルザークの作品を演奏することで何がやりたいかが「コンセプト」となります。また反対に、この「何がやりたいか」が第一にあるために、このコンサートでは、場合によってはドヴォルザークの作品であれば何でもいいというわけにはいかなくなるはずです。

選曲がなぜ大事なのか

僕がこういう風に考えるようになったことには原体験があります。これからそのことについて書くのですが、読んでいる人の中には、それがどのコンサートで、誰の企画かを知っている人がいると思います。僕はその企画者を貶める意図はなく、むしろ慕ってすらいるので、ここではあくまできっかけとしてそのコンサートについて書くということをお断りします。

僕がまだ企画者ではなく、演奏者としてコンサートに関わっていたころ、2011年に東日本大震災がありました。関西の音楽家たちも心を痛め、各地でチャリティコンサートを開催します。そしてその年の5月、僕もあるチャリティコンサートに出演しました。

僕はその時、就職活動と楽器の練習でいっぱいいっぱいで、そのコンサート全体のことを考えている余裕はありませんでした。しかしあとから振り返って、そのコンサートの1曲目が、ベートーヴェン作曲の序曲『プロメテウスの創造物』だったことに、少し疑問を持つようになりました。プロメテウスとはギリシャ神話に出てくる英雄で、ゼウスの反対を押し切って、天界から「火」を盗んで人間に与えたといわれています。その「火」は技術を象徴し、人間の文明発展だけでなく、戦争をもたらしたとされています。これは、すでにお気づきの人もいると思いますが、現代では原子力発電を暗示しています。つまり、「プロメテウスの創造物」とは、原発のことを意味してしまっているのです。(ちなみに原発事故に関する朝日新聞の調査報道記事のタイトルは「プロメテウスの罠」です。)

読み込みが過ぎるという批判もあるでしょう。僕は別に原発問題を語りたいわけではありません。ただ、今振り返ったときに事故の是非が色々と問えるのに対して、事故から2か月後という時期において、このプログラム設計はあまりにも繊細さを欠いていたのではないかということです。僕にはどうしても、多くの作品の中からこれを選ぶことの正当性が見つからないのです。

このことに限らず、僕たちは日常の振る舞いが人びとに対して、暗に陽に影響を与えています。特定のタイミングである発言をすることで、僕たちは受け手にメッセージを届けることができます。これはパフォーマンスの一種です。そしてそれはコンサート(そしてコンサート設計)においても、同じことがあり得ます。この体験から僕は、「なぜその曲を選ぶのか」ということがとても大切だと思うようになりました。コンサートのパフォーマティヴな影響を僕たち企画者が意識できていないと、コンサートの意味を感じてもらえないだけでなく、コンサートや演奏行為に疑問すら呈されてしまいかねないのです。

企画とパフォーマンス

このパフォーマンスを意図的にコンサートに組み込んでいきたいというのが、僕の企画についての考え方です。僕は演奏者ではなく、企画者なので、演奏ではなく、企画を通して自分を表現しています。クリエイティブな「編集」によって、メッセージや、新しい作品の楽しみ方を提案してみたい。このことが、定期演奏会という形でアミーキティア管弦楽団が行ってきたことです。また、過去2回ほどココルームさんで開催させていただいた「釜ヶ崎オ!ペラ」にも、この企画の考え方が活かされています。またこれは、場所性サイトスペシフィックという考え方と結び付けて企画したもので、こちらについてはまた稿を改めて書きたいと思います。

このようにコンサートを、「編集」「コンセプト」という考え方によって設計することで、受け手にメッセージを届けたり、新しい作品の楽しみ方を提案する場所であるという風に考えていることから、僕はコンサートを「メディア」だと表現しています。

もちろん、意味や理由でがちがちに固められたコンサートばかりになってしまってはつまらないですし、「理由のない出会い」「偶然」にこそアートの本領があるとすら、僕も一方では思っています。なので、僕はこれだけを企画方針としているわけではありません。

とはいえ、やはり「コンサートを通して何がやりたいのか」はある程度大切です。少し現実的な話をすると、地域社会、行政、企業からサポートをしてもらおうとしたときには、ほぼ例外なくこれが説明できないといけません。これはお金の話だけをしているのではありません。とりわけクラシック音楽やオーケストラは、社会からはまだまだ浮いた存在です。それをもっと多くの人たちの手で盛り上げていくためには、僕たちがやっていることと人々や社会との接点がもっと必要で、それがないと表現としての広がりもなくなってしまいます。なので僕の仕事は、コンサートに言葉を与えていくことだと思っています。

こうした考え方は、なぜその場所でやるのか、なぜ僕たちがやるのか、なぜ皆さんに向けてやるのか、という問いに答えるポテンシャルを持っていると思っています。もっとも、これは理念系であって、実際に実装されるコンサートには現実的な制約がたくさんあります。なので今の段階では、こうした方向性を念頭においている、というのが、一番誠実かもしれません。

今回はこの辺りまでとしておきます。ありがとうございました。

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