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挨拶と侮辱

思えば、「教育において最も大切なものは挨拶をする習慣を身につける」というものだったのかもしれません。

山登りやトレッキングをすると、すれ違う人とは必ず挨拶をしますよね。これはこれから自分が行く道に何の問題もないことの確認や、自分と相手に問題が起きていないことの確認という実質的な意味もあると思いますが、それはともかくとして気持ちの良い文化です。

バイクを運転していても、市街地から離れたところではピースサインを送り合いますね。片手運転になるため状況によっては送り返せなかったりもしますが、これも心に余裕を持つという実質的な意味もあって楽しい文化です。

一方で、日本でウィークリーマンションなどを借りると、住民との挨拶禁止が言われているところがあります。そう言われていなくても、挨拶をしても返ってきません。

ルールとして挨拶禁止というのもとてつもない話ですが、挨拶されても返せない、人と会っても挨拶できないというのはとてもストレスのように思いますが、住人の方達はどのように思われているのでしょうか。

あるいは、挨拶をしない、他人と余計な会話をしないということに安心感を感じることもあるのかもしれません。触らぬ神に祟りなしといったところでしょうか。(防犯上の理由で挨拶禁止というマンションもあるようなのですが、その理屈までは知りません)

フランスにきて、カフェに入り、挨拶をしないと店員は接客をしてくれないこともままありますが、挨拶をしなさい!と怒る店員の方もいらっしゃいます。こちらが小さい声で挨拶していて聞こえなかったときも同様です。それほどフランスでは挨拶をしないことに対する失礼の度合いは高いんだなあ、と思いました。

私も家庭教師などで教える機会は度々ありますが、挨拶をしないことに対してのみ、怒るようにしています。世界のなかでは、挨拶をしないことが命の危険に直接つながることも少なくないでしょうから。

同時に、気をつけなければならないのは侮辱です。挨拶をしないこと、拒否することも消極的な侮辱にあたることもあると思いますが、中指を立てたり、死ねと言ったり、という積極的な侮辱は本当に注意する必要があります。

私は、気のしれた友人同士だとしても、この行為は絶対に許しません。というより、大切に思っている人からの行為なら見逃さず、不快を伝え、謝ってもらうまで許しません…。とはいえ、感情的にはそこまでならないとは思いますが。なお、侮辱と悪口は少し違いますね。悪口は言われても気にしません。

侮辱とは、その人の存在と人間性の否定にあると思います。
「あなたを社会の一員としての人間として認める気はないし、それを否定する」
という明確なメッセージがあったとき、それを侮辱と感じます。どういうときに感じるかというと、やはり積極的に失礼なことをされたとき、でしょう。

文化によって、礼儀は異なりますから、同じ行為でも深刻さが異なったり、まったく違う意味を持つこともあります。ですから一概にこの行為に対して許せない、ということがあるわけではないのですが、明確な侮辱のメッセージを感じたときはやはり許せませんね。

侮辱と同じような行為で挑発というのもあると思いますが、挑発には乗らないことも大事だと思います。

侮辱でも挑発でも、自分は感情的にならず、その行為だけを咎める、謝罪があれば許す、ということは大切かもしれません。

気持ちの良い人間関係を築いていきたいものです。

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