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宗教観

宗教について考えることはとても大事だと思います。多くの人にとって宗教は生きるための拠り所であって、自分の生活の隣においているものだからです。

宗教について、二つの全く別の目的があるのではないかと思います。

・生きるうえで有用な言葉を自分の内に入れること

・自然や超越的な力に畏怖し、祈ること

私はこの二つが同じ宗教という言葉でくくられていることに、不思議な感じを覚えます。全く別の要素のような気がするからです。そして一方ではこの二つは宗教意識を持たなくても、具体的な宗教名を出すことをしなくても自分に取り入れることができる類のものです。

両親の言葉、先生の言葉、友人の言葉、恋人の言葉、有名人の言葉、作家の言葉、格言・名言、あらゆるレベルであらゆる方向から大切な言葉はたくさん入ってきます。自分にとって大切だと思う言葉を自分に取り入れることはきっと生きることに対してとても助けになることでしょう。

また、厄災の無いことを祈り、食事に感謝し、自分の恐れている感情や、喜びの感情を表現することは、たとえそれが何の物質的な意味の無い行動であったとしても自然にすることがあると思います。

それらは極めて個人的な行動であって、違う感性を持つ他人とは簡単に共有できるものではありませんが、ひとたび共有できてしまえばそれは非常に強い結束力と仲間としての安心感を得ることもできるでしょう。それはとても素敵な人間同士の関係だと思います。

普遍的に大切な言葉を紡ぎ、多くの他人のためにも祈ることができる一人の人間が、多くの人間の共感の中心であって、それを本人が望めば一つの宗派の教祖となりえるでしょう。私は宗教の成立の本質はここにあると思っています。それが何百年、何千年と続く大きな宗教であっても、成立して数か月・数年の新興宗教であっても何ら変わりはないと思っています。

当たり前のことですが、一部のアニミズム的な「祈り」に本質をおいた自然発生の宗教を除けば、すべての宗教は新興宗教であった時代があったわけです。それが異質なものとして煙たがられたり、排除されようとしたり、隠れて行動せざるを得ないような状況に陥ってきたこともしばしばあったでしょう。それはまさに教祖の苦難であると思います。

しかし、時は現代となり、すべての人にすべての思想が許され、それによる差別や戦いが生じない世界になるために前進している力がはっきり感じられるようになった今日です。

私は新興宗教の苦難もいずれ無くなることを信じています。

私はどんどん生まれてくる新興宗教と、それに対する冷たい視線を、何の違和感もなく受け入れていた時期がありました。たしかに新興宗教の強い勧誘活動は厄介です。カルト宗教と呼ばれるような新興宗教団体が、社会的に許されるべきでない犯罪行為に走ることもしばしば目撃されます。集金活動・政治活動に異常なほど精を注ぎ、その宗教の内部から不幸な人が出たり、外部にまで争いごとを巻き込むような団体が存在するのも確かです。

しかし、それは、その有害な行為が非難されるべき対象であって、宗教自体が非難されるべき対象ではないと思っています。なぜならその宗教の本質は、「生きるうえで有用な言葉を自分の内に入れること」「自然や超越的な力に畏怖し、祈ること」だからです。

私はフランスに来て、フランス人から、宗教は何?仏教徒?と言われることがあります。始めは答えに窮していました。たしかに寺院には行くし祈祷を受けることもあるけれど、仏教徒だと思ったことはない。教会に行ってミサに参加することはあるけれどキリスト教徒だと思ったことはない。神社に行ってお祈りを捧げることはあるけれど、神道にそもそも信仰という概念があるのかよくわからない。キリスト教やイスラム教には信仰宣言があるから、信仰宣言をすればその宗教に属していると胸を張って言えるはずだが、私はいかなる宗教に対しても信仰宣言をしていないから、~教徒である、というような言い方はできない、などと考えていました。

それでもすべての物に神が宿り、それを大切にしていかなければいけないという神道的な考え方、歴史上の人物が残した言葉をつねに自分の中に大切に置いておくという行動、聖なる場所を聖なる場所として認め慎ましくすること、これらは信条として守っています。

無宗教や無神論を唱えることは、かなり過激なことであるという概念がフランスにはあります。私にとっては無宗教・無神論は一つの信条として認められても良いものだと思っていますが、無神論がひとの信じる神を侮辱したり、宗教を真っ向から否定する態度をとるような行動は認められるものではありません。おそらくそのような否定の行動をとる人達をみて、無宗教や無神論を過激なことだとみなしているのでしょう。

私自身のことについていえば、無宗教とも無神論とも言えません。やはり、すべての物に神が宿っているという考え方を受け入れていますし、「生きるうえで有用な言葉を自分の内に入れること」を続けています。

これは私独自の信仰であって、それに対して敬虔であることを貫きたいと思っています。それを宗派として共有する人がいるわけではないので儀式的には孤独ですが、信仰としては満たされているように思います。

そして、私は一切の宗教に対して差別を行いません。

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