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土佐日記

紀貫之といえば、三十六歌仙の一人で、日本最古の日記文学であり、仮名文化にも大きな影響を与えた「土佐日記」が有名です。あまりにも有名で、この文学を勉強しない高校生はいないほどでしょう。

教育的にあまりにも一般的に使われてしまっているために、作品として楽しむということは難しくなってしまっているかもしれませんが、それはそれとして現代語訳はいくらでも手に入りますし、いろいろ解説も多いので味わいやすいと思います。

なぜ今回の記事に土佐日記を選んだか、なのですが、私が数年前個人塾で講師をしていたときに、あまりにも感動して泣いてしまい授業ができなくなってしまった苦い経験があるからです。今でもこの部分は印象的で、授業で教えることがあると身構えてしまいます。

十六日(略)家にいたりて門に入るに、月あかければいとよくありさま見ゆ。聞きしよりもましていふかひなくぞこぼれ破れたる。家を預けたりつる人の心も荒れたるなりけり。中垣こそあれ、ひとつ家のやうなればのぞみて預れるなり。さるはたよりごとに物も絶えず得させたり。こよひかゝることゝ聲高にものもいはせず、いとはつらく見ゆれど志をばせむとす。さて池めいてくぼまり水づける所あり。ほとりに松もありき。五年六年のうちに千年や過ぎにけむ、かた枝はなくなりにけり。いま生ひたるぞまじれる。大かたの皆あれにたれば、「あはれ」とぞ人々いふ。思ひ出でぬ事なく思ひ戀しきがうちに、この家にて生れし女子のもろともに歸らねばいかゞはかなしき。船人も皆子だかりてのゝしる。かゝるうちに猶かなしきに堪へずして密に心知れる人といへりけるうた、
「うまれしもかへらぬものを我がやどに小松のあるを見るがかなしさ」
とぞいへる。猶あかずやあらむ、またかくなむ、
「見し人の松のちとせにみましかばとほくかなしきわかれせましや」。
わすれがたくくちをしきことおほかれどえつくさず。とまれかくまれ疾くやりてむ。

2月16日の日記。
京に戻り、その喜びと安心をかみしめていた紀貫之ですが、夜になって久しぶりの我が家に戻ります。掲載分を拙訳します(教科書的な現代語訳ではないことをご了承ください)。

家に入ると、月明かりに照らされてよく見える。聞いていた以上にひどい荒れようで、そこかしこが朽ちていた。家を預かっていた隣人の心がすさんでいたのだろう。垣根はあってもひとつの家同然だから預かるよ、と望まれたから預けたのにも関わらず。とはいえ荷物はいつも受け取らせていたし、従者に、これはどういうことだと苦情を言いに行かせるのはよそう。とても辛いけれどもお礼はしようと思う。さて、池のように窪んで水が溜まっているところがある。そのほとりに松もあった。5-6年のうちに千年の時が経ったかのように、片方は無くなっている。最近生えた松も混ざっているようだ。多くの人々が嘆息をもらす。全てが思い出され、恋しい気持ちになっているなかでも、この家で生まれた娘と一緒に帰れなかったこと、これはどんなに悲しいことだろう。船人たちは子供と一緒に騒いでいるというのに。こうしているうちに、悲しさに耐えきれなくなって、気心の知れた人と歌を詠んだ。

うまれしもかへらぬものを我がやどに小松のあるを見るがかなしさ

これだけではまだ足りない。もう一歌詠んだ。

見し人の松のちとせにみましかばとほくかなしきわかれせましや

忘れがたく、悔しいことは多いけど書ききることができない。とにかく早く破り捨てることにする。


5-6年の時を経て我が家にたどり着いたときその荒れ果てた状態の中に、朽ちている松が残っており、それを見て、様々な記憶が蘇ります。この松を見て育ってきた娘と旅に出て、旅先で娘を亡くてしまって、今朽ちた松と自分しか残されていません。同行者たちは子供と一緒に騒いでいるその声を聞くのは余計に悲しいことに違いないでしょう。

記憶は景色に強く結びつけられます。幸せな記憶と同じ風景を見て、今の悲しさと重ねることほど切ないことはありません。それが、自分の最も大切な人との記憶だったのです。朽ちた我が家を見て、「思い戀し」いと言っている紀貫之ですが、「こひ」という言葉は万葉集ではしばしば「孤悲」と当て字されたように、一人でいることの悲しさを自然に表しているようです。

この悲しさを表すのにあたって紀貫之が貴いほどに静かに美しい心を持っていることが、私にはなお悲しさを際立たせます。

紀貫之は、ここまで悲しい思いをし、それを慰めるどころか余計に辛くなってしまう荒廃をもたらした隣人に対してもなお、お礼をしようと言うのです。

紀貫之が悲しさに耐えきれず取った一つの行動が歌を詠む、ということです。感動という言葉に楽しさ、悲しさ、幸せ、怒り、喜び、切なさ、など強く心を動かすこと全ての意味を込めて、人は感動したときにどうしてもそれを表現したくなってしまうものだと思います。気心の知れた友人や家族や恋人などに、いろいろなことを話したくなるのもこれが理由でしょう。それでも自分の感動に耐えられないとき、歌の持つ力を信頼して、歌にそれを託すのです。

紀貫之は歴史に千年以上にわたって名を残す天才的な歌人です。

その紀貫之が、自身にはとても支え切れるわけではない、その悲しさ、切なさの結晶として作られた歌に私も涙していまいます。

これほど素晴らしい文章と歌に出会うことができたことに感謝の念を持ちます。

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