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コンピューターグラフィックスと35年【4】

MacとWindows

学校でパソコンは使うものの、やはり家でもパソコンを使いたいと思うもの。
自宅のパソコンは父親に頼み込んで小2に頃に故障したままだったPC-88を修理に出してもらいそれを使っていましたが、ソフトを買ったりはしていなかったので新しい事が出来るわけでもなく、プログラミングも結局勉強しなかったので昔のゲームをするだけになっていました。
高校に入りパソコンを新調する事になり(本当は強請った)、学校に合わせてMacにするかどうか悩んだ結果、慣れ親しんだNECマシンをそのまま引き継ぎPC-98を買う事になりました。
というか、世はマルチメディア時代、パソコン雑誌で見た98MULTi CanBeが滅茶苦茶欲しかったのです(Macにもマルチメディアを謳った機種が確かあったはず)。

というわけで自宅はWindows、学校はMacというチグハグな状況が出来上がりました。

マルチメディアとインタラクティブの時代

98CanBeや3DOなど、この時代は何かとマルチメディアやインタラクティブを謳うハードウェアが色々出ていました。
特にインタラクティブは3DOが強調していた言葉でこの時初めて知った言葉でしたが、結局3DOの何がインタラクティブだったのかは最後まで分からずじまいでした…。
98CanBeにはテレビチューナーボードが付いていたのでテレビ番組を録画することができました。
それが凄いというよりは、それをデジタルデータのムービーファイルとして残す事が出来て編集する事が出来ると言うのが当時としてはすごかったと記憶しています。
実際、自分はそこでムービーファイルの形式(AVIやMOV)、フレームレート、コーデックなどのデジタルの映像知識の基本的な事はこの時に覚えました。
そしてパソコンにビデオデッキを繋ぎ、録画した番組をキャプチャ…この時の目的はデジタルへの変換ではなく、静止画をキャプチャし、グラフィックソフトで加工し、ビデオテープのパッケージを作るためでした。
もう普通にパソコンを何かを作るための道具として使っていました。

HMDとの出会い

90年代中頃はHMD(ヘッドマウントディスプレイ)というゴーグル型ディスプレイが色々なメーカーから出ていた時代でした。SONYのグラストロンあたりが有名ですが10万円前後するかなり高い代物でした。
その中でもタカラ(現タカラトミー)が発売したダイノバイザーはHMDの中でも比較的安価な方で、ある時父親が買ってきました。

世の中の評判通り、それほど画質がいいとは言えないものでした。
そもそも当時のHMDは数m先に大型のテレビがあるような感覚が得られるという謡い文句でしたが、普通に小さいディスプレイがある様にしか見えませんでした。
それでも視界を覆われることで得られる没入感はこの当時からでも感じられました。
ただ、一番の問題はこのダイノバイザーはめちゃくちゃ重いという事。
ふつうに装着してても数分でズリ落ちてしまうので、長くは着けていられません。
なので、当時は寝転がりながらこれでゲームをしていました。
家にあったゲームの中で、一人称視点のゲームは3DOのジュラシックパークしかなかったので、これでひたすらジュラシックパークをやっていました。板ポリの恐竜でも突然目の前に現れるとめちゃくちゃ怖かった…。

インターネットの時代へ

すでにパソコン通信がパソコンユーザーの中では一般的だった時代、99CanBeにも標準でモデムが搭載され、パソコン通信用のソフトがプリインストールされていました。
今当時を振り返ると、パソコン通信に熱狂していたパソコンユーザーの歴史が語られているのを見ますが、自分はそんなに興味がありませんでした。
あまり外に対して繋がりを求めていなかったのだと思います。
Windows95が登場し、パソコン通信を発展させたインターネットと言うものが出来ると言うのが話題となっていましたが、やはり同じようにそれほど興味を持っていませんでした。
どちらかと言えば父親の方がインターネットに対する興味が強かったので、とりあえず父親が始めたのを横目に見ていました。
少し様子が変わったのは高校3年の時です。

物理の授業でHTML

3学期になってなぜか物理を受け持っていた先生がインターネットとHTMLの授業を始めました。
意味が解りませんでしたが、ここでようやくインターネットに興味を持ち始めます。
そして、HTMLに触れることでコードを書くことにもついに興味を持ち始めます。
授業とは関係なく本屋でHTMLの本を調べ、次の授業で勝手に習ってないHTMLを組み始めるようになりました。
家のパソコンでもInternetExplorerを使ってHTMLを組んで遊んでいました。高校時代一番勉強熱心だった時かもしれません(受験勉強はしていないのでなおの事)。
学期末のテストは手書きでHTMLを組むという鬼畜な内容でしたが難なくこなすようにまでなっていました。

次の年、物理の先生はめでたく情報科へ転属していきました。

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