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短編小説「真贋」②

第二章

週刊太陽の編集者である石原康介はまだ目の前の状況が飲み込めないでいた。自分が話しているのは本当に中学二年生の女の子なのか。

足立区北千住にある喫茶店で待ち合わせをしたものの、本当に現れるのか半信半疑であった。そもそも昨日の電話から奇妙なものだった。

「古利根川で自殺と判断された同級生の死の真相を掲載してほしい」

電話口に出た女性記者からそのような問い合わせが入ったと連絡を受けたのは、2000年9月4日のことだった。

全容がつかめないので、とりあえず石原は電話を取り次ぐよう指示した。このところ政界も大きな動きがなく、目玉となる記事がなかった背景もあり、駄目元のつもりで応対する気になっていた。

「電話代わりました。編集をしている石原と申します」

「初めまして。私は埼玉にある春日中学2年の山下香織と申します。本日は私の同級生の死の真相について、取材していただきたくご連絡いたしました」

石原は丁寧な言葉使いと落ち着いた声色から、初めは教員が電話してきたのかと思ったが、同級生という言葉に耳を疑った。

「真相というと、どんな内容になるのかな。遺族の方の気持ちを考えると、下手に記事にするわけにはいかないんだよ」

「美咲には遺族はいないわ。そんなことより、石原さんは発達障害という言葉はご存知ですか?」

発達障害支援法が制定される前のこの時期に、発達障害という概念を理解している人間は少なかった。

「いや、初めて聞く言葉だが」

「美咲は発達障害を抱えていました。そのため、同級生の心ない言葉を真に受けて、彼女は死へと追いやられました。警察は自殺と判断しましたが、彼女は同級生に殺されたのです」

「俄かには信じがたい話だな」

「この問題を取り上げてくれたら、週刊太陽は週刊誌で初めて発達障害の問題を取り上げた週刊誌としてブランドイメージを構築できるわよ。また、たくさんの教育評論家に議論を巻き起こさせる契機になれるでしょうね」

「君は本当に中2か?話は分かった。でもなぜうちなんだ?普段政治を主に扱っているんだが。」

「昨日いくつか本屋に行ったけど、他誌に比べて、週刊太陽はあまり流通していなかったわ。発行部数が伸び悩んでいらっしゃるんでしょ。明日直接説明するので、とにかくお時間をいただけますか?」

有無を言わせぬ山下の語り口に、石原はついに最後まで話を聞くことになり、会う約束までしてしまった。

勢いに押されたということもあるが、中学2年生でこれだけの交渉が行える山下という人間に興味が湧いたというのも否定できない事実だった。

石原は既に禿げあがった頭を抱えながら、ブランドイメージときたか、と苦笑混じりにそうひとりごちた。

待ち合わせ場所は足立区北千住。駅には複数の出口があるため、山下が指定してきた喫茶店は駅に直結しており、乗り換えの為に多くの人が行き交う通路に面していた。

お店の中は昼下がりということもあり、子ども連れの母親同士が仲良く談笑していたり、一人で読書に耽っている大学生らしき人がカウンターに座っている。駅の雑踏も入ることから適度に活気があり、ここなら取材内容も周りに聞こえる心配はなさそうだ。

先に着いていた石原は、待ち合わせの際に判別できるようにと、久しぶりに被ったハンチング帽がむず痒く、早く脱ぎたい衝動に駆られていた。

もう何度目か分からない、脱いだり被ったりしていたところへ声がかかった。

「お待たせしました。石原さんですよね。お電話させていただいた山下と申します」

電話のときと同じ、丁寧な言葉とともに山下は現れた。

石原が周りから変な目で見られないよう、あえて制服は纏わずに、ジーパンにカーキ色のジャケット姿で登場した山下を見て、石原はその美しさに驚いた。天は二物を与えたか。

「お忙しいと思いますので、早速本題に入らせていただきますね」

そう告げた山下は、注文したアイスコーヒーを一口含んだ後、淡々と話し始めた。

山下から田村美咲の生い立ち、1度でも言われたことを忘れない記憶力、水死体となって発見された事実、同級生とのやり取りを全て聞いた後、石原は思わず唸っていた。確かに、これらの情報が事実なら世間の関心を引き、大きな話題になるかもしれない。

問題は既に警察が「自殺」という結論に至っており、裏取りが甘いと捜査妨害だと言われかねず、そもそも雑誌は立ち入れないという記者会見が多い中で、今後は誌名が名指しで外されてしまう懸念があることだった。

後はデスクをどう説得するかだが。それは自分の覚悟次第でどうとでもなる、か。石原は既に自分の思考が掲載に踏み切る方向に動いていることに思わず苦笑した。大した中学生だ。

「分かったよ、山下さん。いっちょ動いてみるか。最後に一つ、山下さんがここまでやるのは、故人のためか、同級生の復讐のためか、動機を知っておきたい」

「美咲はこんなこと望んでいないでしょうし、ましてや復讐なんて感情的なものでもありません。ただ知りたいんです。人と違うというだけで攻めたてていた人間が、責められる立場になったらどう反応するのか」

微笑み混じりにそう告げた山下を見た石原は、どこか薄気味悪さを感じながら、ぞっとさせる表情すら美しいと思わせる山下の立ち振る舞いに、ただただ圧倒されていた。

埼玉県警の海野警部は、遺体の検分を済ませた後、近くにいた人間を呼び立てた。

「目撃者はいるのか」

30代後半にもかかわらず、よく鍛えられた肉体に加え、眼光鋭い切れ長の目を持つ海野に、そう話しかけられた巡査は、幾分緊張しながら上司に回答した。

「入水時の様子は誰も。しかし、遺体の第一発見者は、あちらです」

若い巡査が示した方向に目をやると、犬を連れた初老の男性がひどく狼狽した様子で立っていた。

「なんだってまぁ、こんな時期に川に入るかねぇ」

海野は悪態をつきながら目撃者の方へと歩みを進めた。

「埼玉県警の者ですが、遺体発見時の様子を教えてもらって良いですか?」

第一発見者は、そう藪から棒に質問されると、もう何回も答えているのか慣れた様子で淡々と答えた。

第一発見者によると、今朝犬の散歩がてら古利根川沿いを歩いていたところ、川面に学校の制服らしきものが浮かんでいるのが目に入り、珍しいこともあるものだと近づいていった。

制服まで後1メートルといった距離に近づいた際に、それは制服どころか人間であることが分かった。手の届く範囲ではなかった為、慌てて警察に連絡したところ今に至り、遺体を引き揚げている様子からそれが女子中学生のものと認識したとのことだった。

海野は予想通りの情報量に落胆の色を隠さず、調書を取らせた後、さももう用はないとばかりに帰らせ、先程の巡査を呼び寄せた。

「身元は?」

その簡潔な質問の仕方が、部下を必要以上に緊張させることを知ってか知らずか、海野は巡査に情報を求めた。

「春日中学2年の田村美咲。家族はおらず、児童養護施設の在所児です。中学は制服にて特定し、名前は制服の刺繍から辿りました」

児童養護施設と聞いて海野は胸のあたりがチクリとするものを感じながら、平静を装い部下に尋ねた。

「養護施設へのあたりは済んだのか」

「いえ、これからです」

「では、俺が行こう」

今日は厄日だな、こんな日は嫌なことをさっさと片付けるに限るといつもの持論に立ち返り、海野は車両に乗り込んだ。

その児童養護施設は、国道から少し外れた住宅街の一端に居を構えていた。日当たりも良く、適度に緑が植えられた施設は、市立の小学校、中学校に通いやすいようにと建てられていたが、平日の日中ということもあり閑散としていた。

市内にはいくつか養護施設があるだろうに、よりによってここか、海野に12年前の記憶が蘇る。

12年前、海野の妻は交通事故で亡くなった。運転していたのは、窃盗の前科を持つ中年男性。飲酒運転だった。

当時海野には2歳の娘がいたが、妻を奪われた海野はその運転手を捕まえるために、不眠不休で捜査をしていた。捜査になると、犯人を捕まえることに心血を注いでしまい、極端な生活リズムとなるのは独身の頃からの癖だった。

やっとの思いで犯人を捕まえたとき。海野はさらなる不幸に襲われる。海野の腎臓にガンが見つかったのだ。海野も、その妻も親は既に他界しており、海野が亡くなれば幼い娘は天涯孤独になることは明白だった。

そこで海野は、苦渋の決断として娘を戸籍から外し、この児童養護施設『こどもの森』に預けたのだった。

いや、海野にとって子どもと生きていく選択肢もあるにはあったが、妻の死に接した当時の自分の精神状態では、子どもを育てられる気持ちになれなかったというのが正しいかもしれない。

体をだましながら仕事を続け、通院や手術を繰り返した結果、7年後には医者からは今後は年に1回の検査入院で問題ないという診断結果が出た。

死を覚悟して娘と離れたにもかかわらず、これからも生きられることになったのだ。それからの海野は人が変わったように、やや強引な手法で犯人を追い詰めていく刑事になった。まるで何も考えたくないかのようであった。

こどもの森の施設長は見るからに温厚そうな、良い歳の重ね方をした白髪の女性であった。

直接対面するのは初めてのはずだが、12年前の自責の念からか海野はまっすぐに目を向けられないまま、亡くなった田村美咲について尋ねていった。

「田村美咲さんはいつ頃からこちらに入所されていましたか」

「こちらで保管している資料をみる限り、確か1歳半から2歳半頃でしょうかね。当時はあまり笑わない子でね、入所することになった経緯も突然あの子がうちの中庭に立っていたんですよね。まぁ実親が顔を見せないことはあるにはあるのですが、美咲ちゃんの場合、全くその場から動かず、表情も一切変わらなかったので、非常に印象に残っています」

「美咲さんの部屋を見せていただくことは可能ですか」

「3人部屋でしたが、ちょうどこんなことがあった直後なので、他の2人には部屋を移ってもらいました。どうぞ、こちらです。まだ何もかも手つかずでしてねぇ」

それは良かった、と海野は内心思いながら促された場所へ移動した。

施設内をよく見ると、ご飯の片付け方、ゴミの出し方、挨拶の仕方など多岐に渡った手作りの掲示物があちらこちらに貼ってある。

海野はその掲示物から人の温かみを感じ、自分の娘もこういった環境で育ってきたんだなと少し感慨深いものがあった。

海野はあえて自分の娘の近況に関しては聞かなかった。いや、聞けなかった。万が一すれ違ったとしてもお互い顔もわからないのだから、ましてや写真なども持ち合わせておらず、今の名前すら知らないのだ。

そして今さらどんな顔して会えば良いのか、もはや海野は犯罪への怒りのみが彼の人生を支えていた。きっと良い里親の元で養子として暮らしているに違いない。

田村美咲の部屋は2階にあった。部屋にたどり着くと、家具は最低限のものしかなく、3人部屋と聞いたが2段ベッドが2つ設置されていた。

一般家庭にあるような芸能人のポスターなどは掲示されておらず、生活感をあまり感じることができない。

「美咲さんが使用していた家具はどれですか」

「ちょうど今立ってらっしゃる場所から右手の茶色い衣装棚が美咲ちゃんの使用していたものです。それ以外は特に私物はありませんねぇ。まぁそれしかないので、後は刑事さん、好きに調べてください。私は他の子達の帰りを迎えに行きますから」

そう言って人の良さそうな笑顔を浮かべて、施設長は玄関付近へと向かっていった。

1人になった海野は、早速衣装棚を開けてみた。海野は既に遺体の様子と目撃者の証言、現場の状況から自殺の可能性が高いと感じていたが、確信に至る何かがないか、淡い期待を持っていた。

衣装棚の最上段には、中学生らしい下着と肌着、そして学生服に合わせるであろう白い靴下が複数枚丁寧に畳まれていた。

良く使うものを1番上に置きたいタイプだったのかと、田村の人物像をプロファイルしながら海野は2段目を開けてみた。

そこで海野は大きな衝撃を受けた。海野はあるものを手に取り、またそれと一緒にしまわれていた便箋らしきものを拾い上げ、目の前が真っ暗になりそうになるのをこらえながら、それらを回収し、部屋からころげ出るようにして1階へと向かった。

道すがら、玄関口で施設長に何か声を掛けられたような気がしたが、海野は激しく脈打つ動悸をこらえるのに必死で、挨拶もそぞろにその場を後にした。自殺には間違いない。間違いなかったが…。

その日の夕方、海野は自殺であるとした調査結果を報告した。声を掛けられても一切応答せず、早めに切り上げていく様子を同僚は訝しんだが、平常時から取っつきにくいことが功を奏し、余計な詮索をされずに帰宅することができた。

海野が突然上司から呼び出されたのはその2日後のことだった。特に呼び出されるような案件に心当たりが無かった海野は、幾分おっくうな気持ちを抱えながら会議室へと入っていった。

会議室は常にロの字型にセッティングされており、ちょうど入り口とは真向かいの席に、海野を呼び出した人物が座っていた。

上司である杉原警視は海野を確認するなり、こう切り出してきた。

「海野か。君は週刊太陽という週刊誌を読んだことはあるか」

良く見たら杉原以外にも見慣れない人間が2人座っていて、こちらを挑むような視線で海野の返答を待っている。

「いえ、読んだことはありません」

海野はこどもの森を訪れた日から、普段は目にするテレビや新聞を手にすることができずに、ずっと暗い闇の中にいる感覚で日々を過ごしていた。

「そうか。先日君が報告してくれた中学生の自殺について、全国規模で大きな話題となっていることは知っているか」

「いえ、存じ上げませんが、世間からしたら大したことない案件になぜそこまで・・・」

「そんな悠長なことを言ってる場合か君ぃ!」

ドンと机を叩きながら怒鳴った人間は海野の見知らぬ2人のうちの1人であった。

「失礼。紹介してなかったな。こちらは広報課の村田警視だ。それにしても普段から情報に明るい海野君が珍しいな」

「いったい何なんです」

村田警視の恫喝に一切怯むことなく、今議題に挙がっている案件に対する興味の無さを全く隠さずに、海野はそう尋ねた。

「君が自殺と断じた田村美咲は、発達障害を抱えていたようだ。同級生が掛けた言葉で殺されたのだと世間では大騒ぎなのだよ」

「言葉で殺す?まさかそんな情報を本気にする人間がいるのですか」

「そのまさかだ。しかも、非常に風向きが悪い。警察が人権を無視した極めて無機質な判断を行ったなどという論調まで出始めている」

「私に何をしろと…捨ておけば良い問題じゃないのですか」

当然そうくるよなと、現場上がりの杉原は海野の反応は最もだと思いながら次の言葉を出せずにいた。業を煮やした村田警視が代わりに結論を告げた。

「君には記者会見をしてもらう。このような案件でマスコミを招聘するのは極めて異例だが、この流れをいつまでも放っておくのは我々には得策ではないと判断した。君の判断の妥当性を君自身が証明してみせなさい」

要するに自己責任で解決しろということか。全くまるでトカゲのしっぽ切りだな、そんな不快感を表に出しながら海野は黙礼してその場を立ち去った。

記者会見の日取りは、何と海野が呼び出されたその日の夕刻16時に設定されていた。

こちらの都合はお構いなしか。海野はやや自嘲気味に、控室で週刊太陽の記事に目を通していた。発達障害の主な症例の紹介とともに、警察の判断を見事なまでに批判している。

判断を下した海野ですら客観的に読んだら、この田村美咲に同情したかもしれないほど力のある記事だった。この記事を書いた石原康介という名前に何となく目を通した後、海野は急に馬鹿馬鹿しく感じ始めた。

何で当事者でもないのにこれほどの騒ぎになるのか。かつて妻を亡くした事故の当事者を経験した海野にとって、このように騒ぎ立てる人間達は許しがたいものがあった。

いずれにしろ、早く現場に戻してくれ。開始時間まで海野は別の案件の資料に目を通すことにした。

週刊太陽の石原は5分後に開始される記者会見を前に、未だ目の前の光景を信じられずにいた。

自社が掲載した記事を契機として、これだけのマスメディアが集まる会見に至ることは石原自身これまで経験のないことであった。この状況を予見していた山下香織という存在に改めて身震いした。

普段は警察の記者会見において週刊誌は立ち入り禁止とされる対応も珍しくない中、週刊太陽が今日は最前列の席が与えられ、さらに質問できる時間も用意されている。

周りを見渡すと本社と慌ただしく連絡を取り合っている者、少しでも良いアングルを狙おうとカメラのセッティングをしている者、普段話しかけるのも気後れするような大手新聞社、雑誌関係者が、今回の会見に対しての意気込みを感じさせており、会場は異様な熱気に包まれていた。

石原が1人の記者として興奮しないはずがなかった。

石原が緊張を紛らわそうともう一度質問の原稿に目を通そうとしたとき、会場入り口付近から一斉にフラッシュが焚かれ始めた。16時になって捜査担当の警部が登場したのだ。

さぁいよいよだ、石原は何度握り直したかわからないペンにもう一度力を込めた。

海野はパイプ椅子に腰をかけると、会場内の様子を素早く観察した。カメラの位置、記者達の表情、見守る会場関係者。何てことはない、普段部下に説明する通り立ち回るだけだ。

記者会見と言いながら、3人掛けの古めかしい木製の机にスタンドマイクが一本置かれただけの簡素な設備だった。

「埼玉県警の海野と申します。今回皆様にお集まりいただいたのは、女子中学生の事故に関して、自殺という判断に至った経緯をご説明するためです」

海野がそう口火を切ると、言葉が途切れる度にいちいちカメラのフラッシュが焚かれ、慣れるまで時間を要した。ついさっき記者会見のことを聞いたばかりというのはおくびにも出さず、海野は堂々とした姿勢で続けた。

「これから自殺として結論づけた理由について3つご説明いたします。1つ目は、遺体の検分時に外傷が無かったこと。誰かと争った形跡はなく、また衣服の乱れもありませんでした。2つ目は現場検証の結果から入水時に単独であったことが証明されており、1つ目と関連しますが、第三者の関与の可能性は考えられないこと」

そこまで述べた後、海野は会場を見渡してみた。記者達がメモを取っている様子まで目に入ってくる。大丈夫。自分は冷静だ。

「3つ目については故人は児童養護施設に在籍しており、所属する中学校では特に親しい友人もおらず、よく一人で昼食を食べていたという証言を得ていること。そのことから特に怨みや妬みを向けられる対象にはなり得ないという判断に至りました。以上三点になります」

さぁ質問をどうぞと言わんばかりに、海野はそこで間を空けた。

「今回亡くなった中学生は、発達障害を抱えており、同級生がついた嘘に導かれて川に入水したのでは、という報道が一部の雑誌からありましたが、その点についてはいかがでしょうか」

こういった会見に場慣れしてるであろう大手新聞記者が先陣を切った。

「今回自殺と判断した後にその報道の存在を知りましたが、仮に事前に知ったとしても判断は変わらなかったでしょう」

「その理由を伺えますか」

こういった記者会見の場では見慣れない記者から質問が挙がった。

石原だった。石原は切り込むなら今しかないという判断で口火を切った。

若干膝が震えているのが自分でも分かる。

「先程ご説明した3点の根拠を覆すに足る事柄では無いと判断できるからです」

「しかし実際に故人の同級生からは、故人に対し、仲の良かった友人が溺れているという虚偽の情報を伝え扇動したという証言を得られているのですが、その点はどうお考えですか」

言葉を変えてはいても、全く同じ切り口でしか質問をしてこない記者に対し、海野は次第に暗い感情が芽生え始めた。

「死因を特定するには不十分な状況証拠と言わざるを得ません」

海野が死因を特定した決定的な証拠は別にあるのだが、この場では出せるはずもない。

「失礼ですが、海野警部は発達障害の症例についてご存知ですか」

なかなか取り付くシマのない海野に、石原は切り札のカードを切った。煙に巻かれたまま会見を終えられてしまっては、週刊太陽が巻き起こした論調が、単なる話題作りと逆風が吹きかねない。

「あまり詳しいとは言えません」

「今回亡くなった田村さんは、同級生の言葉の真偽を判別できる能力があったかは疑問が残ります。もし、判別できなかったとしたら、事故ではなく事件の可能性が高いのではないでしょうか」

緊張していた石原はそう一気にまくしたてた。

海野は最前列におり、やや早口に質問してきたその男の首掛け名札を盗み見て、この記者があの記事を書いた張本人かと、その執拗に質問してくる姿勢に合点がいった。

「仮にその証言が事実だとして、故人は友人を探すために川に入水したとしましょう。しかし、果たして友人が川にいる痕跡が全く見られない中で、自分の命が脅かされる程捜索を続けるでしょうか。そのような判断能力すらも欠落するものなのでしょうか」

海野は冷静というより、少し冷めたトーンで言葉を放った。

石原はというと、心の中でガッツポーズをしていた。ここまでの言質さえ取れれば、また世間の議論は盛り上がるに違いない。

警察を追求し、その判断を覆すことが目的ではなく、今回の判断が確実な証拠対不確実な証言という対立構造かのような問題提起を示し、世論の感情に訴えられれば、記事を載せた成果としては充分である。

山下香織は、テレビを見ながら生まれて初めて興奮している自分を自覚していた。

それは自分が働きかけた週刊誌の記事を契機として世論を動かせたという実感に対してではなく、テレビに映っている海野という人間の立ち振る舞い、返答内容、記者を見つめる眼差し、その全てに対してだった。

この人は自分と同じだ。他の人から見たら、記者の挑発するような質問にも冷静に切り返す警察官として映っているだろうが、山下には感じるものがあった。

この人は空っぽだ。余計な感情が無い。自分の周りにはこんな大人はいない。

この警察官は、自分が記者からどう見られ、また視聴者にはどう映り、果ては会見の動向を気にしているであろう県警の上層部にどう思われるのか、全く気にしていないようだ。どうしたらこんな人間を生み出せるのか。

人の感情を消し去りたい山下にとって、海野の存在は初めて目にするロールモデルだった。

記者会見は、石原らしき声で発せられた質問を最後に打ち切られていたようであったが、既に山下の関心は海野に移っていた。

今回週刊太陽が期待した通りの記事を掲載したことで山下の思惑通り、あの平手打ちをお見舞いした勝俣にまで取材は及び、現在勝俣は学校に登校していない。

自分に自信がなく、自分より弱い人間にあたることでしか快を得られない人間は、いざ騒動の中心に据えられるとそれまでの生活を維持できないらしい。

山下にしてみればあまりにも想定通りの結末だったために、勝俣にも、今回の報道の行方にも興味が薄れかけていたところに、海野が登場したのだった。

もっと海野のことが知りたい。普通の人間は、相手のことを知りたいと興味を持ったら、質問なり会話なりを行うところだが、山下の思考は違った。

もっと海野を追い込んで、冷静ではいられない状況になったときに、どんな本質が出て、どんな反応を行うのか。知りたい。

相手は県警の警部ということもあり、今回のような突発的な取り組みではなく、しっかりとした準備が必要だ。

山下は画面に映る海野の顔をしっかりと目に焼きつけながら、自然とその表情は口角が上がっていた。

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