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般若心経の意味(超簡単解説)

「般若心経」というのは260文字程度の短いお経ですが、仏教の基本と言われていて、多くの解説書が出ています。とは言え、それを読んでもよくわからないのが正直なところ。なので例によって少々乱暴ですが、分かりやすさを重視した解説を試みます。実はこの内容はずいぶん前に書いたものなのですが、今一つ肝心なところがスッキリしないこともあってずっと寝かせていました。しかし今回仏教シリーズを見直した機会でもあったので公開しておきます。
「超簡単」とは言ってますが、いくつかの前提知識や背景知識は必要ですので、その辺りを織り交ぜながら進めたいと思います。

■般若心経の主旨:

・般若心経は大乗仏教の古典と言っていいと思いますが、とにかく目につくのは以下の2点。
①やたらと「無(=否定)」を連発しているところ。何をこんなに否定しているのかと言うと小乗仏教です。これでもかこれでもかと小乗仏教へのダメ出しをしてます。これが主題の1つなのでしょう。つまり小乗仏教批判文書です。(注:小乗と言う呼び名は大乗仏教側からの否定的は呼び名らしいので、以降はより一般的な上座部仏教と呼ぶことにします)
②もう1つは「般若波羅蜜多」という単語で、これはやや多義ですが「仏の智恵、般若経の教え、それを学ぶための修行」と理解すればいいと思います。そして、それをやたらと賛辞していて、これももう1つの主題です。
この2点が般若心経の理解ポイントで、ここで腑に落ちる方は終了です(^^;)

■バラモン教→原始仏教(≒上座部仏教)→大乗仏教の流れ
・少し時を戻しましょう(^^;)。
釈迦が生まれた時代(ちょっと語弊があるかもしれませんが)の中心的な思想はバラモン教でした。原始仏教は、このバラモン教への批判から生まれました。そのバラモン教には、すでに輪廻転生思想が含まれていたのですが、バラモン教の輪廻転生が原始仏教と違うのが次の2点です。
①バラモン教ではず~っと永遠に輪廻を繰り返します。そんなの大変なので、原始仏教は解脱(げだつ)の方法を編み出しました。
②仏教でもバラモン教でも、死後どこへ生まれ変わるか(天界、人間界、畜生界、餓鬼界とか)は生前の行いで決まるのですが、バラモン教では4大カーストの最下層スードラ(奴隷)の人は人間界に戻ってもスードラ以外には行けないと意地悪な教えでした。しかし原始仏教はこのカーストそのものを否定しました。

・原始仏教は基本的に個人救済です(だから乗り物が小さい(=小乗)と揶揄される)。根本的には個々の人の「苦」からの脱出の教えです。それは輪廻転生から解脱するため為の方法(後述)を実践することで、解脱して涅槃に入ることを目指しています。この涅槃入りが究極のゴールで、涅槃というのは静寂な「永遠の死」のイメージです。

・大乗仏教は単なる涅槃入りには価値を見出さなかった。「自分だけ永遠の死を目指すなんて、そんな小さな目標で良いのか?」と考え、「単に涅槃を目指すのではなく、仏の智恵(後述)を習得すれば何にもとらわれることはなく、生き生きと主体的に生きることができる。」と考えました。
(注:実はこの辺りが正直ちょっと難しいです。)
大乗というぐらいですからみんなで乗れる大きな乗り物ですが、「修行の先は菩提(悟りの知恵)を授かって、苦しんでいる衆生を共に救うこと」を目指すことになりました。つまり、「小乗はまだ本当の真実には到達していない、もっと生命を活発にする世界、働きぬく世界に目標がある」としたわけです。なので、ここで上座部仏教を批判して、般若波羅蜜多を賞賛している訳です。

・ちなみに上座部仏教はタイ、スリランカ、ミャンマーなどの東南アジアへ、大乗仏教はチベット、中国、日本へ向かいました。(インドにはほとんど残っていない(^^;))

■空
・ここからが本番です。少しややこしいですが、ポイントなのでご容赦ください。上座部仏教と大乗仏教では「空」の考え方は同じですが、何を「空」とみるかの「対象」が少々が異なります。
・「空」については下記で解説しましたが、

もう一度触れると、
①「永遠に不滅で、自分だけで存立している存在」ではない。
②「縁(=他との関係)」によって「現象」として成立「させられている」だけ。自身で自らを存在せしめているわけではないので、「縁」が変わると「モノ」も変わってしまう。自主性・主体性はない。

・原始仏教(≒上座部仏教)の「解脱」の秘訣は「我空法有」にあります。「『我』は『空』だけど、『法』は有る。」そもそも苦しみの源泉は「『我(=自分という意識)』が永遠に自主独立し存在し続けるということに執着するところ(我執と言います)にあり、『我』に執着するからまた来世に生まれ変わる輪廻につながる。」釈迦は衆生を我執から解放することで衆生を苦しみから解放させよう(涅槃に入る)として、「我」が「空」であることを説いたのが始まり。

・「法」というのは「世界の構成要素」みたいなもの、「我」を成り立たせているその他の材料みたいなもので、おおよそ「我」以外の物質的・感覚的な「モノ」になります。つまり、世の中は「我」と「法」でできていると考えます。上座部仏教も大乗仏教も「我」が「空」なのは同じなのですが
   上座部仏教では「法」は「空」ではなく「有」だと主張しています。
   大乗仏教では、「法」も「空」と説いています。
般若心経が「無~無~無~無~」と、これでもかと否定している「モノ」が「法」の具体的(?)な構成要素になります。
(後でいっぱい出てきます(^^;))

・大乗仏教は「モノ(=法)と言っても我々が直接知っているのは色声香味触(五感からくる情報:後述)しかなく、そこからモノが人の脳内で創造されているに過ぎない。つまり色声香味触と言っても脳が作り出した映像でしょ。モノの実体はどこにあるのか?」と問う。そして「ならば結局、『我』も『法』もどっちも『空』じゃない。そんな『法』への執着(法執といいます)を断つと、すべての執着がなくなり、その結果何にも煩わされることも引っかかることもなく、主体性が発揮でき、仏の知恵(菩提とも言います)を得ることができ、大乗仏教が目指す『もっと生命を活発にする世界』『働きぬく世界』『衆生を救える世界』、即ち別の涅槃(無住処涅槃といいます)に到達できるはず」と説く。

※実はここが私もまだスッキリしないところで、我執を断つことが解脱につながるのは分かるが、法執をも断つこと(=すべての執着を断つこと)で智恵(=般若波羅蜜多)を得て、それが衆生を救うというつながりがよく見えてはいません。人は「束縛(≒執着)」がまったく無くなったらどうなるだろう?自由になって主体性が本当に発揮されるのか?逆に何もできなるんじゃないか?そんな気がしてしかたがない。

■シチュエーション
般若心経の経文に入る前に、シチュエーションを説明しておきますと、
・釈迦が禅に入る。
・その時観音菩薩は般若波羅蜜多を修行し、五蘊皆空(後述)を洞察した。
・その時舎利弗(釈迦十大弟子の1人)が観音菩薩に「どのように学べば良いか」を聞く。
・その時の観音菩薩の答えが般若心経の内容。
という感じです。

ここまでが前提知識です。以下、経文を取り上げてみましょう。


■「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄」

◇「観音菩薩が深い般若波羅蜜多を行じてその智恵を学んだとき、五蘊(※)は全て空であることを見極めて、衆生をあらゆる苦から解放した。」

※「五蘊」:世界を構成する5つの要素:①は物質、②~⑤は精神。大まかに言って物質①=法、精神②~⑤=我と考えてよい。
①色蘊(モノの世界。物理的排他的に空間上の位置を占めるもの)
これを分解すると、
  ・5つの感覚対象=五境(色・声・香・味・触)いわゆる五感
  ・5つの感覚器官=五根(眼・耳・鼻・舌・身)

続いて、これらの意識の対象としての精神的なものとして残りは
②受(=感情) 惹かれる、嫌がる、快・不快
③想(=取像) 対象を概念的に把握する
④行(=意志) 他の四蘊以外のすべて
⑤識(=知性) 知ること、推理、判断

※ちなみに五蘊の1つの「色蘊」の「色」と、五境の1つの「色」ば別物で、前者は「(意識外の)モノ」を表わし、後者は「眼が見せる像」を表わします。この辺が少々ややこしい。

■「舍利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是」

◇「舎利弗よ、世の中のモノ(=色)で実体のあるもの(=何があっても変わらないし変化しないもの)などない。それが「空」ということである。それは受想行識(=残りの四蘊)と呼ばれる(上座部ですら「空」と言っていた)意識の世界と同じである。」

繰り返しますが、上座部仏教では精神的世界(受想行識)は「空」とは言っていた。大乗仏教では物質的世界(色)も「空」、つまり物質的世界も精神的世界も「空」であると主張しているわけです。以下、基本的なフレームは同じです。

■「舍利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」

◇「舎利弗よ、この世の「法」はすべて空なのです。なので我も法も、それ自体が生まれたり消えたり、汚れたり綺麗になったり、増えたり減ったりはしないのである。」

■「是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界」

◇「従って、「空」が本質の世界の中には、色(注:この色は五蘊の中の色)もなく、受想行識もなく、眼耳鼻舌身意もなく 色声香味触法もない。眼界から無意識界までもない。」

つまり五蘊も十二処も十八界(※)も、な~んにもない、ない、ない、無いったら無い (^^;)

※全ての「法」は、下記の五蘊の一つの蘊、十二処の一つの処、十八界の一つの界のどこかにおさまる。分かり難いかもしれませんが、全ての「法」はこれらに分類されるという感じ。そして、それらは全部「無」だというのは、「一切のモノは『空』だ」という主張になっている。
・五蘊(割愛)
・十二処=六根(眼耳鼻舌身意)+六境(色声香味触法)
・十八界==六根+六境+六識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)

※「無眼界 乃至無意識界」の「乃至(「~」の意味)」の省略部分は、
    眼界、耳界、鼻界、舌界、身界、意界、
    色界、声界、香界、味界、触界、法界、
    眼識界、耳識界、鼻識界、舌識界、身識界、意識界
です。乃至で省略しちゃってます。

■「無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽」

◇「(それだけじゃないぞ)無明から老死へつながる十二縁起(※)も全て「無」である。」

即ち、輪廻転生も否定(※)し、「自分」が不変の存在であることも否定。

※十二縁起:上座部仏教で、我々の苦しみの由来を徹底的に掘り下げてその原因を解明したもの。無明から老死へ因果がつながっている。苦をなくすには、その大元の無明を断てばいいわけで、ちょっと啓蒙思想に似ている。
また、生前(①②③)~死後(⑪⑫)を含み、これは輪廻転生も包含していると言えるでしょう。
 ①無明(真実を知らない暗い状態。根本的無知だが、その自覚はない)
 ②行(無明に基づく行為)
 ③識(母体への受性)
 ④名色(器官形成前の胎児)
 ⑤六入(器官形成後の胎児)
 ⑥触(母体からの出生)
 ⑦受(感情を伴う認識の生起)
 ⑧愛(欲望を伴う認識の生起)
 ⑨取(激しい執着を伴う認識の生起)
 ⑩有(「愛」「取」によって作られる業)
 ⑪生(未来で転生した瞬間)
 ⑫老死(以後、死ぬまで)
上記の⑪⑫は死後の世界であるが、人は死後の世界があるとか、輪廻転生があるとか思う時、何か「自分」というものを想定して、それが続くとか無くなるとかを考えている。あたかも自分が常にいる存在であるかのように。死後の世界があるかないか以前に、その仮定(=自分という存在を常在唯一永遠絶対であると気づかずに仮定してしまっている)がもっと問題である。

※十二縁起を否定することは輪廻転生を否定することにつながるとは思うが、そこまで言い切っていいかどうかは自信がありません。般若経や法華経を紐解く必要がありますが、そこまでは立ち入れません。

「自己を対照的に捉えるのが迷いである」(西田幾多郎)

■「無苦集滅道」

◇「{まだまだ続くぞ)四締(※)も無である」

四締は全てダルマ(=法)で説明できる。法は実体ではないので、四締も実体ではない。

※四締:原始仏教で説かれた4つの聖なる真理
 ①苦締(苦は事実としてある)
 ②集締(苦をもたらす原因がある=無明や煩悩)
 ③滅締(苦が滅するという事実がある=涅槃)
 ④道締(滅をもたらす原因がある=修行)
つまり「集→苦」と「道→滅」の二重の「因→果」。これも幻だと。

■「無智亦無得 以無所得故  菩提薩〇(土辺に垂) 依般若波羅蜜多故 心無〇(四冠に圭)礙 無〇(四冠に圭)礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃」

◇「智(=小乗の教え)もないし、得(=涅槃)も実体はない。、菩薩(=修行者)は般若波羅蜜多を学ぶと、心に引っかかり、囚われ、妨げがないくなり、涅槃に行きつく。」(注:この涅槃は小乗の涅槃とは別物の無住処涅槃だと思われる)

■「三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提  故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚  故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」

これ以降は般若波羅蜜多を賞賛しているだけなので省略。

最後の「羯諦羯諦~」はもっとも有名で、いわゆる真言(=マントラ)。真言は真言宗以外でも使われ、本来は人間の言葉で表すことはできない仏の真実の教えを「方便」とし、て世俗の文字・言語を借りてそれに教えを盛り込み、心を統一し称えることで、その教えに触れ得るようにしたものらしい。
皆で読誦してみましょう(^^)v

以上