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江戸末期の尊皇思想は如何に生まれたのか(前編)~現人神の創作者たち(山本七平)


この著作はアカデミアではあまり評価されているように感じませんが、間違いなく名著です。但し、話がアチコチに流れていって主題が分からなくなってしまい、なかなか付いていくのが大変なのでちょっと整理したいと思いました。

ここで言う「現人神」というのは、江戸末期に現れた「尊皇思想」のこと。
昔むかしは天皇が統治の中心であったが、いつの間には武士が政治の中心になり、そして江戸末期にその尊皇思想が生まれ、大政奉還・明治維新につながった。そんな経緯の中、幕末の尊皇思想が如何に生まれたのかが本著作の主題です。
更に尊皇思想というのは1つの表れに過ぎず、その元になる思想があって、実はそれが現在の我々をそれと気付かぬうちに縛っていて、「何に基づいて自分はそういう発想をするのか」が分からないことが多いと指摘しています。それは自己が認識している伝統、それに基づく自己の思想形成に関する無知、それらも明治維新と戦後で2度も単純に消し去ったのが原因とのこと。「では何を消してしまったのか」を探求しているとも言えそうです。

答えを端的に書きますと、著書に書かれているように元になる思想というのは「朱子学の亜流」です。孟子に近いが、「忠孝一致」という朱子学ではないようなカスタマイズが含まれている。これでは何のことか分からないと思いますので、以下で解説を試みます。

前半の主役は日本で朱子学の崎門派を創設した山崎闇斎という儒学者とその弟子たちで、特に崎門三傑と呼ばれる弟子のうちの浅見絅斎、佐藤直方の2名になります。中でも山本七平は主犯を浅見絅斎とみなしているようですが、彼らがどういう人物か順番に見ていきましょう。

(1)山崎闇斎、佐藤直方、そして浅見絅斎

■山崎闇斎という人物:
・1619年京都生まれ。幼少期に比叡山に入り仏僧となったが、1642年に還俗して儒学者となる。1655年に京都に闇斎塾(朱子学)を開く。(前投稿で紹介した)湯武放伐論を完全否定するも朱子学の正統論には矛盾があることも指摘。それが原因でその後は神道の研究も始め、神儒を一体化させた垂加神道を開いた。この垂加神道は神道の中でもかなり広まったということです。簡単に言えば、仏教から朱子学に転向し、朱子学と神道を習合させた垂加神道へ進化させた。この流れは後で説明しますが重要なポイントになります。
・元々が出家僧であったことから修行に重きをおき、朱子学への転向後もその生活態度は変わらず、修行僧の如く実践する朱子学を目指していたことから、大変厳格な師であったと言われています。師に論争を挑むと破門の憂き目にあうほどだったとか。(昔はこの辺りを史実に沿った大河ドラマにでもしてくれたらなあと思ってましたが、昨今の大河ドラマの風潮ならばいらないかも)

山崎闇斎

■佐藤直方という人:
・1650年江戸の生まれ。学問を目指して京都へ赴き、山崎闇斎に弟子入り。闇斎が神道に傾いたことに批判的で、闇斎から破門される。
・一言で言えば朱子学正統派。実は山崎闇斎はオリジナル朱子学の限界に気付き、日本で使うには日本化が必要と考えた為、垂加神道という形を編み出した。しかし、コチコチの朱子学原理主義者の直方は大反対。
・「孔孟程朱の道は天地不易で万国普遍であって、日本と中国の差は問題にすらならない。ましてや日本の特殊性を主張して朱子学の土着化(日本化)など馬鹿げている」とまで言う。

■浅見絅斎という人:
・1652年滋賀県生まれ。医師を辞めて山崎闇斎へ弟子入り、崎門三傑に数えれられる。山崎闇斎同様に湯武放伐論を完全否定し、朱子学の矛盾にも気付いていた。その矛盾を追求することが尊皇・倒幕の精神を目覚めさせたようだ。師の山崎闇斎は神道に傾くが、浅見絅斎は関心を示さず、その頃から師とは疎遠になった。
・後に尊皇のバイブルとも称せられた「靖献遺言」を著わし、幕末の倒幕運動の思想的支柱を建てたと言われている。
・「靖献遺言」は義に生き義に死んだ中国の8人(屈原、諸葛孔明、陶潜、顔真卿、文天祥、謝枋得、劉因及び方孝孺)の評伝。朱子学の本場中国でも、ここまで自分・家族を犠牲にしてまで義に生きる人はなかなか少ないであろう中で、正統な王朝に忠義を尽くし死んでいた者たちへの賛歌になっている。これらが幕末の志士たち(吉田松陰、梅田雲浜、竹内式部、等)を鼓舞したことは間違いない。

浅見絅斎

(2)湯武放伐論にみる3人の違い:

この3人の違いを見るには湯武放伐論に対する賛否から説明に入るのがわかりやすいと思うますが、その前に湯武放伐論についての儒教・朱子学の賛否を説明します。湯武放伐論そのものについては前投稿をご参照ください。

◇中国の儒学者たちはどうか判断したか。
・孔子は武王への抗議の意志で餓死した伯夷・叔斉を「仁」と評価した。これは湯武放伐否定論である。では孔子が武王を否定しているかというと、武王の孝を褒めたりしているようで、ちょっと歯切れが悪い。
・孟子は「紂王は既に君主の資格などなく、武王が討ったのは匹夫(卑しい男)に過ぎない」と述べてます。これは湯武放伐論肯定論になります。この時に「天」という概念が確かになりました。これ以降、「天子(=皇帝)」が絶対なのではなく、「天」の絶対性が明確になりました。
・湯武放伐論は儒教での最大の難問(=弱点)と言われているだけあって、皆さん歯切れが悪いようですね。

◇それではコチコチの朱子学者佐藤直方はどうか。やはり朱子学のセオリー通り、湯武放伐は正しい(=朱子学にかなっている)と主張。今の日本人はこれに近い気はするが、どうしてそうなのかうまく説明できないのではないでしょうか。
天に絶対性を置き「天から見れば天皇は家老、将軍は用人。将軍は天皇を征伐して良い。但、その基準は仁である」とまで言っている。
但し、直方は武王を否定しているかと言うとそうでもなく「武王の道も文王の道も文武両道で同一」と訳の分からないことを言っているらしい。

◇山崎闇斎は湯武放伐を肯定する者は破門されるほどの湯武放伐否定派。但し、中国の政治哲学の限界に気付き、それを指摘している。
「中国を見ると王朝を建てた者は皆叛逆者ではないか」
「そんな叛逆者が正統性を主張し、そんなへの叛逆者が賊なのか?」
このことが山崎闇斎を神道に走らせたようだ。

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※少々闇斎から外れますが、日本の神道は何にでも習合する伝統を持っているようです。例えば、仏教からは奈良時代の「神仏習合説」、平安時代の「本地垂迹説」。密教からは「唯一宗源神道(卜部兼倶)」や根本枝葉果実説。結局神道は日本の歴史・伝統という事実を踏まえてるからこそ生き続けていて、外来の思想はそのままでは生き残れない。以前の投稿で「群衆心理」を紹介しましたが、その中でこんな言葉がありました。

・ある時代の思想は、過去の娘で、未来の母で、常に時の奴隷である。
・民族は、その性格に則して統治されるのであって、この性格にぴったり合うように作られていない制度は、すべて仮衣装か一時の変装に過ぎない。政体ではなく、民族の性格が、その民族の運命を決する。
・制度は思想・感情・習慣から生まれた結果であって、法規を改めても、思想・感情・習慣を改められない。

つまり歴史や仕組みが違う中国の尺度を日本に当て嵌めようというのがそもそもの間違いであることに我々は気づきます。どこが違うかというと、

①朱子学は血統に基づく帝位の継承を原則としていない。「天」という姿の見えない意志が絶対であり、「天」から見て不行儀な「天子」は蹴殺すべしというもの(佐藤直方)。これが易姓革命の本質です。
一方日本の天皇は神話の時代の神々から無媒介的に連続している存在である。日本神話には天皇は天照大神の子孫であり、子孫(天皇)が困ってたら救うことはあっても蹴り殺すという発想はない。(ゆえに「日本は神国」と北畠親房は宣言したのです)

②中国は「天」と「天子」の二段階であるが、日本は「天皇」「徳川幕府」「藩・大名」と多段階である。これがけっこう効いている気がします。

③儒教では「忠」より「孝」の方が上位である。というか、「孝」は絶対だが、「忠」は絶対ではない。例えば臣下は天子を3回諫めても聞き入れられなければ静かに去ることが出来る。「三度諫めて身みを退く」(礼記)
日本では徳川幕府がは朱子学を便宜的に援用した際に「忠孝一致」としたが、実がこれが上記②と相まって毒薬となってしまったきらいがある。「藩・大名」の忠義の対象は「天皇」なのか「徳川幕府」なのかという話である。「将軍が天皇を討て」と言い「天皇が将軍を討て」と言った場合はさてどうするのが義にかなっているだろうか?
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◇話は戻って、浅見絅斎ですが、師と同様、湯武放伐否定派です。否定しなければ正統論のロジックが保てないから。とは言え武王も完全否定できず、ロジックとしてはやや歯切れが悪い。しかし、朱子学正統論を徹底した結果、
「簒臣、賊后、夷狄は正統でないとして、穏やかに治めれば正統なのか?」
「大義はないのはどれも同じじゃないか。」
「ならば、朱子学の正統論は不徹底である。」
「本当に正しいのは伯夷叔斉のみではないか」
先ほど「藩・大名」の忠義の対象は「天皇」なのか「徳川幕府」なのかということを書きましたが、これをもっと突き詰めたのが浅見絅斎で、彼は「徳川幕府に正統性はあるのか?単に争いに勝ってまとめただけじゃないのか?そんなこと言ったら別に徳川でなくてもいいのではないか?」という疑問を突きつけた。即ち、湯武放伐否定論者の立場から、幕府は簒臣であると事実上定義してしまったことになります。これを説明する為に書き表わしたのが靖献遺言で日本人なら楠木正成辺りが出てきそうですが、それではあまりに露骨で、幕府にも目を付けらえかねないので中国人を見つけて示したとも噂されています。絅斎は幕府を敵視し、江戸に足を踏み入れようとはしなかったし、高弟の三宅観瀾が水戸光圀の招へいに応じて彰考館へ行ったことに立腹して彼を破門した。「水戸とはいえ幕府の分かれに過ぎない」というのが理由。
では浅見絅斎にとっての絶対は何だろうか。「義」であろうが、殉教の対象となる「神」は誰だろうか。そこに現人神の姿は作られて来ている。万世一系の天皇こそ正統性を持つ唯一だろか?どうもそれほど単純ではなさそうです。

■結局、朱子学者たちはどうなったのか。
・佐藤直方はオリジナルの朱子学を拘泥し、矛盾を抱えたまま進みます。そのせいか佐藤直方に続く流れは作れなかったようです。
・山崎闇斎はオリジナル朱子学の矛盾を神道と習合させて、新たは垂加神道として発展させようしたようです。こちらは各種神道に影響を与えていったようです。
・浅見絅斎はオリジナルの朱子学の矛盾は「徳川幕府なんて余計なのがいるからだ」という訳で、徳川幕府打倒の方向に進みました。実際には彼の存命中には倒幕は難しいので弟子たちと靖献遺言に託しました。
結局、この浅見絅斎の思想が図らずしも水戸の彰考館に移り、そこで洗練され幕末を迎えることになります。

つまり、オリジナル朱子学を曲げなかったのが佐藤直方、朱子学を曲げて日本化しようとしたのが山崎闇斎、朱子学に合わせるため現実(=徳川政権)を変えようとしたのが浅見絅斎というとことでしょうか。

<続く>