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西欧が行った虐殺の数々(2)ーオランダ編


・プロテスタントのカルヴァン派として暗い生活を送っていたオランダ人でしたが、バルト海を中心として貿易で生計を立てていたこともあり、他国(スペイン、ポルトガル、イギリス、フランス)に負けじと植民地航路を探していました。インドネシアでやっとこ利権を手中に収め、1602年のオランダ版東インド会社を設立し、ジャワ島に本拠地を置いた。
それ以降1942年に日本軍に降伏するまでオランダにより植民地支配が続きました。

・植民地統治は西欧得意の間接支配。以前投稿しましたが、牧場に例えると、牧場主としての全権は宗主国が確保し、その手下として一部の原住民(キリスト教改宗者、オランダ人との混血者、華僑)をカウボーイとして雇い、少しだけ甘い汁をを吸わせ、残りの原住民を家畜扱いして搾取する。牧場主は裏に隠れて家畜とは接触しない。カウボーイと家畜を分断し互いに反目させることで原住民が結束しないように図る。

※日本も官僚、国会議員、経団連辺りがカウボーイだったりする気がするのは私の勘違いだとは思いますが(ならば牧場主は誰かはさておき)、この方法は現在でも良く使われているように思います。

それ以外に家畜には教育は施さない、(今でもあるが)多くの地方言語があっても統一しない、集会の禁止など、積極的に分断を図る統治が行われていた。

・イギリス同様に民間企業を擬制し、民間企業なので営利の苛斂誅求に努めた。特に「強制栽培制度」は土地の適性や原住民の食糧事情などを一切無視して、本国の利益のための輸出商品を強制的に安価に作らせたことで、多くの飢饉や餓死を発生させた。原住民の平均年齢は35歳程度と言われている。
自給自足が崩壊し、貨幣経済生まれてきたが、重税と高金利を課した。

・オランダの植民地経営は、オランダ本国の収入の半分近くを稼いでいた。イギリスのインド経営ですら赤字と言われているので、その苛烈さは想像できる。日本語の文献・書籍は少ないが「レムレフ報告」と呼ばれている検察官による現地報告書に詳しく書かれている。
残念ながら、そのものの日本語訳・英語訳は見つけらていないが、ネットにはいくつか情報が散見される。オランダ語のアーカイブはレイダン大学の下記サイトにあるようです。ダウンロードも可ですが、残念ながらテキストはデジタル化されてないので、翻訳機能も使えません。

◇Rapport van de resultaten van het my by Gouvernements-besluit van 24 Mei 1903, no. 19 opgedragen onderzoek

また下記の書籍にも多くの引用があるが、どの国の虐待も似たようなものであることは容易に想像できる。

◇西欧の植民地喪失と日本(ルディ・カウスブルック:草思社)

■アチェ戦争
最後に1つだけトピックスを挙げておきます。アチェ戦争です。

・1873年から1912年頃まで続いた、オランダとアチェ王国(スマトラ島の北端部のイスラム教国)の紛争。案の定、多くの石油埋蔵量が見込まれた地域。アチェ側の死者は5~6万人と推定されています。