見出し画像

天皇の失徳が国を危機に陥れた~保建大記~(後編)

⑫平清盛の権勢とその後の平家滅亡の原因:
・主君がすたれた政治を再興し後世までの規範とする時、文官はまずは職務に励むため歴史を調べて自戒するであろう。しかし、彼らも立身出世するにつれて傲慢奢侈になり最後は自滅してしまう。
・武官は有事には奮起し身を捨てて戦うが、往々にして法律を無視、立てた手柄も非常識で破廉恥だったりするので家を滅ぼす。
・平治の乱で清盛は最盛期を迎えたが、その権勢を築く原因やその後の滅亡の原因もこんなところに見えるように思える。

⑬義朝というかつてない逆賊:
・兄が弟を殺すことはあったし、子や父を殺すこともないではないが、義朝は更に将軍の身で主君を殺害しようとした。平忠致が誅しなくても天下はきっと誅したであろう。
・しかし、清盛を悪く言う人はいるが、義朝の罪を問おうという人はいない。そして、平忠致は源氏の家臣のくせに、義朝を弑したのは怪しからんとまで言う始末。
・平忠致は血筋的にも地位においても必ずしも義朝の下ではない。国の為に賊を誅したのみ。義朝は人喰い虎であり、これを捕まえ者には褒章があってしかるべきである。

源氏系図1

⑭平氏を滅ぼしたのは「天」:
・頼朝は源氏の残党を糾合し、富士川の戦い、砺波山戦い、篠原、一ノ谷、屋島から壇ノ浦で平氏を殲滅した。人の力(流人頼朝、孤児義仲、小冠者義経)だけで出来たわけではあるまい。池禅尼が頼朝も許したのが原因という意見は妥当とは言えない。天の力が働いたに違いない。

⑮後白河の二条の親子仲違いは皇室の不幸である:
・藤原経宗と藤原惟方は二条天皇に自ら政治を行うようにと囁く。しかし後白河上皇はこれを聞きつけ怒り、清盛に2人を殺させようとするが、忠通の要請で流罪に減免。この辺りから清盛が威服を欲しいままにし始める。
・二条崩御後、後白河は何事も清盛を頼るようになってしまう。そして清盛は朝廷の権力を弄び、子弟らを役職に就け、平氏の荘園は全国の半分以上にまでなった。
・父に孝せぬ子と、子に優しくない父が、民に仁を施すことは不可能だ。
・そもそも子(二条天皇)に院政停止に追い込まれるような上皇など聞いたことがない。

藤原家系図3

⑯皇位継承のルールは国の安定の元である:
・後白河は憲仁親王(後白河の第五子)を皇太子にした。六条天皇の叔父にあたる。因みに六条天皇は3歳、皇太子(憲仁親王)は6歳。人々はこれを嘲笑した。2年後六条天皇は譲位し、憲仁親王が高倉天皇としてなった。六条天皇は太上天皇と呼ばれたが、元服すらしていない上皇は古来からいない。そした六条天皇は崩御した。たった13歳であった。
・昔、葛野王が持統天皇に進奏して言うには「神武以来の国法によって天意は子孫が受け継いだ。もし兄弟相争えば乱の元になるだろう」と。その為には主君を立てる原則が1つに定まっていて、君臣の区別が厳格でなければならない。跡継ぎは必ず正嫡に定まって、嫡庶の区別も明らかでなければならない。(籠坂王子や忍熊王子は、応神天皇より年長であっても正嫡ではないので皇位には就けなかった)
・叔父が甥を父としたり、年下が年上を子とするのは、即ち父が父でなく子が子でないのである。

保建大記系図

⑰以仁王の功罪:
・以仁王は後白河が清盛に幽閉されるなどの平氏の専横を排除するため、清盛を排除するための令旨を諸国に下した。しかし、謀が漏れて以仁王は敗死してしまった。
・以仁王の問題は「私が自ら即位して賞を行おう」と宣言したこと。これでは以仁王が父である後白河に謀叛を起こすようなものだ。そんなことで清盛を討てようか。
・しかし、清盛は皇室を軽視し、後白河を幽閉し、高倉上皇を脅迫し、人事を弄び、自分の幼い外孫である安徳天皇を擁立するなど、罪悪が天下に満ちていた。以仁王の挙兵は失敗に終わったとはいえ、後白河を幽閉から救い出したという功績はある。

⑱三種の神器は正統性を示すもの:
・後白河は祖訓にも国典にも拠らず、天子を幼児から選んで三種の神器もないのに後鳥羽天皇を擁立した。こんなことをするなら、平氏の敗北を待って、神器の水没を嘆いた方が良い。
・後醍醐は些末な策を弄して神器の偽物作ったがこれは神器の真偽を紛らわせ、正統の見極めを困難にするものだ。
・神鏡は、醍醐天皇が讒言を信じて菅原道真を罷免したことに天が感応して焼けてしまったのだ。宝剣は、後白河が君徳を失ない武家に権力を撮られたので失せてしまったのである。天命は常に人事に基づき、それによる災難は自業自得とも言える。

三種の神器

⑲後白河のデタラメ:
・後白河は義仲に命じて平氏を討たせた。
・義仲の乱暴狼藉は後白河にとっても脅威であったので、義仲が頼朝を討つ院宣を請うた時は断れなかった。
・義経が頼朝追討の勅を後白河に請い、こちらにも院宣を下した。
・その後頼朝が義経を討とうとし、義経が京都へ逃げた際には、後白河は頼朝に「二度と政治にはかかわらない」と約束をしている。
・後白河が次から次へと前言を翻し、自らの利益を図り、それを恥ることもない。そこを頼朝につけこまれて、頼朝の不忠を許してしまった。

後白河天皇

⑳頼朝の功罪:
・高倉から安徳の御代は、君主が幽閉され下々も塗炭の苦しみを味わっていた。そこに頼朝は安定をもたらし神器の危機を救ったことは間違いない。
・しかし頼朝は万事にずる賢く、武家統治が天子に由来することを知らしめないようにした罪は大きい。
・人君が身を律して徳を慎むことができれば、天下の人心は勝手に服するし、勝手に畏れるもの。人心の畏服するところに天命も従って帰す。天命の帰すところに誰が抗し得ようか。人君たるもの、ここまで考えが及ばなければならない。

【まとめ】
・後白河は乱世の君主。戦乱のたびに逃げ回り、ほとんど国を滅ぼそうとした。それは大倫が明らかでなく、紀綱(=政治的規律)が奮わなかったから。本朝開闢以来2300余年のうちの最大の災厄が後白河の在位・在院のわずか38年に起こっている。
・我が国は、清盛に悩み、義仲に危うく、頼朝で安んじて、頼朝によって衰微した。
・国を危うくする臣の罪が小さいのではないが、臣に危うくされる国の欠陥が甚だしい。君を蔑ろにする臣の悪が著しくないのではない。君にして臣に蔑ろにされるのは天下の大道が失われているからだ。

さて現在にも当てはまる教訓と感じられるものが多くあるのでは??