見出し画像

古事記の世界<下>

(35)仁徳天皇(16)の時代
※いろいろと有名な仁徳天皇(16)から下巻になります。

■仁徳天皇(16)は難波に高津の宮(大阪市中央区法円坂付近:諸説あり)を作り、天下を治めた。

仁徳天皇難波宮

■この天皇の御子は以下の通り。

仁徳天皇系図

・「曾都毘古(そつびこ)」の娘である「石之日売命(いはのひめのみこと)」を妻として生ませた子は、
1)「大江之伊邪本和気命(おほえのいざほわけのみこと)」→後の履中天皇(17)
2)「墨江之中津王(すみのえのなかつみこ)」→兄を殺害しようとして返討にあう
3)「蝮之水歯別命(たぢひのみづはわけのみこと)」→後の反正天皇(18)
4)「男浅津間若子宿禰命(おあさづまのわくごのすくねのみこと)」→後の允恭天皇(19)

・また以前出てきた髪長姫を妻として生ませた子は、
5)「波多毘能大郎子(はたびのおほいらつこ)」別名を「大日下王(おほくさかのみこ)」
6)「波多毘能若郎女(はたびのわきいらつめ)」別名を「長日比売命(ながひひめのみこと)」又は「若日下部命(わかくさかべのみこと)」

・また異母妹の「八田若郎女(やたのわきいらつめ)」や「宇遅能若郎女(うぢのわきいらつめ)」を妻としたが御子は生まれなかった。

・大后の石之日売命の名を記念するため、郷里の地名を取って葛城部を定め、大江之伊邪本和気命の名を記念するため、養育係を壬生部と定め、蝮之水歯別命の名を記念するため、多治比(大阪府羽曳野市)の地名に拠って蝮部(たじひべ)を定め、大日下王の名を記念するため、大日下部を定め、若日下部命の名を記念するため、若日下部を定めた。

仁徳天皇(16)の事績
・秦人(はたびと)を使役して、茨田の堤、茨田の穀倉、丸邇(わに)の池、依網(よさみ)の池を作った。そして難波の河川反乱を防ぐため、堀江を掘って海にまで通わせ、小橋の入江(@天王寺区小橋町)を掘り、墨江の船着場を定めた。
・ある時、天皇が高い山に登って司法の国を眺望して言うには「見渡す限り竈の煙が見えない。この国に住む民が貧しいからであろう。これから3年間は民の税金や賦役を免除することとしよう。」その結果、宮殿は痛み雨漏りまで始まったが、修繕を命じることはなかった。そして3年後、再び山に登って眺望すると、国中で竈の煙が立ち上っていた。そして「もういいだろう」と言って税金や賦役を元に戻した。これゆえに、この天皇の御世を聖の御世という。(※有名な話です)

■嫉妬深い大后(石之日売命)と黒日女
・天皇を愛するあまり、大后は大変嫉妬深い性格であった。ある日、天皇は吉備の海部の直の娘である「黒日女(くろひめ)」が麗しいと聞いて召そうとした。しかし黒日女は大后の嫉妬が怖くて故郷に逃げ帰ってしまった。
・天皇は悲しんで歌をうたったが(歌は割愛)、大后はその歌に激怒し、人を黒日女に差し向けて、黒日女を船から追い降ろして徒歩で帰らせた。
・天皇は黒日女を忘れられず、大后に淡路島に行くだけだと嘘をついて旅に出かけた。淡路島からこっそり吉備に入り黒日女に会っていた。

■嫉妬深い大后と八田若郎女
・ある日、大后が宴会の準備に為に木の国に出かけているスキに、異母妹の八田若郎女を引き入れて妻にした。
・大后の帰路に難波の船着き場で雑仕女たちは人足からある噂話を耳にして驚いた。「天皇様は、大后様の留守を良いことに八田若郎女と婚礼してイチャイチャしているらしい。大后様は何も知らず旅をして呑気なものだ」
・この話を雑仕女から聞いた大后は積み荷をみな投げ捨て、宮殿には戻らず山城の国に船を向かわせた。途中で歌を歌い気を静め、大和へ行き、ふたたび山城に戻り、しばらくそこの韓人の「奴理能美(ぬりのみ)」の家に滞在した。大后が山城から大和に行ったと聞いた天皇は「鳥山(とりやま)」という舎人を使いに出し歌を届けさせた。さらに丸邇(わに)の臣である「口子(くちこ)」を使いに出して歌を届けさせた。口子は大后に歌を伝えていると、大雨がふってきた。ずぶ濡れの口子をよそに大后は意地悪して裏へ回ったり表に回ったりしていた。水は口子の腰の辺りまで来て、口子は進退窮まっていた。口子の妹の口日売(くちひめ)は、その時大后に仕えていたが、兄の哀れな有様を見て歌を歌った。
・天皇から使いが来ても大后は帰るそぶりを見せないので、奴理能美口子口日女の3人は一計を案じ、天皇を呼び出すことにした。天皇には「大后様が立ち寄られているのは、奴理能美が飼っている虫が三様(這う、閉じ籠る、飛ぶ)に変化する不思議な虫なので、それをご覧になるためです」と言った。すると天皇も見たいとおっしゃるので、山城の筒木(田辺町)へご案内した。天皇は大后が泊まっている御殿に向かって歌をうたった。双方の魂をしずめる志津歌である。

■女鳥王
・天皇は弟の速総別命を仲人として異母妹の女鳥王を召そうとした。しかし女鳥王は「あんなに嫉妬深い大后がいる天皇よりも貴方(=速総別命)の方が良い」と言って、速総別命と通じてしまった。なので速総別命は天皇に返事が出来なかった。
・そこで天皇は直接気持ちを聞こうと御殿に向った。ちょうど女鳥王は機織りの最中だったので、天皇は歌を投げかけた。歌のやり取りから、天皇は女鳥王の意中の人は自分ではないと悟り、そのまま宮殿に帰って行った。
・しかし、その後天皇は、女鳥王速総別命に謀叛をそそのかすような歌を歌っていることを知り、2人を討伐することにし、2人は宇陀の蘇邇(奈良県曽爾村)で討たれた。
・この追っ手の1人であった山部の大楯の連は、女鳥王が腕に巻き付けていた玉釧(たまくしろ:腕輪の一種)を亡骸から取り上げて妻に贈った。ある宴会でその妻が堂々とその玉釧を腕にはめて出席しているのを大后が見つけ、2人の詰問して事の次第がわかった。大后は「自分にとって君にあたる人が腕に巻いたまま死んだその玉釧を、こともあろうに、まだその手が温かいうちに盗み取って妻に与えるとは言語道断」と処断して死刑にしてしまった。

■この天皇は83歳で崩御。御陵は毛受(もず:大阪府堺市)の耳原にある。 

仁徳天皇陵

(36)履中天皇(17)

■履中天皇(17)は大和の伊波礼(いわれ)に若桜の宮(奈良県桜井市)を作って天下を治めた。

履中天皇若桜宮
履中・反正・允恭・安康天皇系図

■この天皇の御子は
・「葦田宿禰(あしたのすくね)の娘である「黒比売命(くろひめのみこと)」を妻として生ませた子は、
1)「市辺之忍歯王(いちのべのおしはのみこ)」
2)「御馬王(みまのみこ)」
3)「青海郎女(あをみのいらつめ)」、別名を「飯豊郎女(いひとよのいらつめ)」、又は「忍海郎女(いおしみのいらつめ)」、あるいは「飯豊天皇」とも呼ばれる。それは清寧天皇(22)と顕宗天皇(23)の間に執政していたからで、不即位天皇として扱われている。

墨江之中津王の反乱
履中天皇(17)が難波の宮での大嘗祭の酒宴で酔っぱらて眠ってしまった時に、弟の墨江之中津王が兄を殺そうと館に火をかけた。しかし、大和の漢の直の祖先である阿知の直が天皇を救い出した。そして河内の多遅比野(大阪府羽曳野市)までたどり着くと歌を詠み(※こんな時にでも詠むのですね)、さらに埴生坂(大阪府羽曳野市)まで逃げた時難波の宮を振り返って、炎が燃え盛る姿を見て歌を謳った。(※また)
・二上山を越える大坂口の麓に着いた時。1人の若い女に出会った。女は武器を持った大勢の兵士がこの山で待ち伏せているので南の当麻口を使って遠回りした方が良いと教えてくれた。天皇は感謝の歌を謳い、無事大和へ着いて、石上神宮まで逃れることができた。
・そこに弟の蝮之水歯別命(後の反正天皇(18))がやってきて面会を申し込んできた。しかし、蝮之水歯別命墨江之中津王と通じている疑念もあり面会を断る。そして、もし通じていないなら、難波へ出かけて墨江之中津王を殺して来たら面会してやると告げた。
・そこで蝮之水歯別命墨江之中津王の警護役の一人である隼人の「曾婆加里(そばかり)」を騙してこう言った。「もしお前が私の言うことを聞けば、私は天皇になりお前を大臣にしてやろう」とそそのかした。すると曾婆加里墨江之中津王が厠に入っている隙に刺し殺してしまった。そして、曾婆加里を連れて大和に向う途中、蝮之水歯別命は「この隼人は私の為に功績は上げたが、主君を殺すのは不義の大罪である。彼の功績に報いたとして、天皇に何と言うだろう。彼の功績には報いるとしても、やはり彼自身は亡き者にせざるを得ない。」(※ロジックが今一つわからないが)そして、二上山の登り口で宴を行い、油断した隙に、この哀れな隼人を斬り殺してしまった。(※気の毒な限りだ)
・その翌日に大和の向ったので、その辺りの土地を近飛鳥(ちかつあすか:大阪府羽曳野市)と呼ぶ。また大和に着いた時「今日はここに泊まり、禊祓いをして、明日石上神宮へ行くことにしよう」と言ったので、その辺りを遠飛鳥(とおつあすか:奈良県明日香村)と名づけた。

近飛鳥

・そして翌日石上神宮で天皇は弟を中に入れ初めて語り合った。天皇は自分の命を救ってくれた阿知の直を蔵官(くらのつかさ:出納担当)に任命し領地も与えた。またこの御世では、若狭部の臣などに若狭部という名を与え、比売陀(ひめだ)の君などには比売陀の姓を与えた。また磐余の地名にちなんで伊波礼部(いわれべ)と定めた。

■履中天皇(17)は64歳で崩御。御陵は父君と同じ毛受にある。

履中天皇陵

(37)反正天皇(18)

反正天皇(18)は多治比(大阪府羽曳野市)に柴垣宮を作ってて天下を治めた。
この天皇は慎重が9尺2寸半(≒2.8m)、歯の長さが1寸(≒3㎝)広さが2分あり、上下の歯並びは球に緒を付けたように見えた。

■この天皇の御子は以下の通り。
・この天皇が丸邇の評碁登の臣の娘「都怒郎女(つぬのいらつめ)」を妻として生ませた子は、
1)「甲斐郎女(かいのいらつめ)」
2)「都夫良郎女(つぶらのいらつめ)」

・また、都怒郎女の妹の「弟比売(おとひめ)」を妻として生ませた子は、
3)「財王(たからのみこ)」
4)「多訶良弁郎女(たからべのいらつめ)」

■この天皇は60歳で崩御。御陵は毛受野(大阪府堺市)にある。

反正天皇関連

(38)允恭天皇(19)

※この辺りから皇室周辺が乱れてきます。

■允恭天皇(19)は遠飛鳥に宮殿を作って天下を治めた。
■この天皇の御子は以下の通り。
・「意富本杼王(おほほどのみこと)」の妹「忍坂之大中津比売命(おさかのおほなかつひめのみこと)」を妻として生ませた子は、
1)「木梨之軽王(きなしのかるのみこ)」
2)「長田大郎女(ながたのおほいらつめ)」→同名の方がもう1名いらっしゃいます。
3)「境之黒日子王(さかひのくろひこのみこ)」
4)「穴穂命(あなほのみこと)」→後の安康天皇(20)
5)「軽大郎女(かるのおほいらつめ)」別名は「衣通郎女(そとほしのいらつめ)」→この別名は身体が白く、衣の外にまで輝いていたから。
6)「八瓜之白日子之王(やつりしろひこのみこ)」
7)「大長谷命(おほはつせのみこと)」→後の雄略天皇(21)
8)「橘大郎女(たちばなのおほいらつめ)」
9)「酒見郎女(さかみのいらつめ)」

■この天皇は身体が弱かったので、天津日嗣の位を固辞していた、しかし周囲から強く押されて天下を治めるようになった。その頃、新羅からやってきた新羅王の使い「金波鎮漢紀武(こむはちむかむきむ)」の医薬処方で病気を平癒してもらった。
・世襲が続くにつれ、氏や姓 の使い方で乱れが生じてきたので、嘘をつくものを罰する為に「言八十禍津日神(ことやそまがつひのかみ)」を祀った。甘白檮(あまかし)の神社で探湯(くかだち:熱湯の中に手を入れさせて、手がただれるか否かで罪の有無を判断する方法)を行って正邪を明らかにした。
木梨之軽王の名を記念するため軽部を定め、大后の名を記念するため刑部を定め、大后の妹の「田井中比売(たゐのなかつひめ)」の名を記念するため、河部を定めた。

允恭天皇(19)は78歳で崩御。御陵は河内の恵賀の川岸を臨むほとりにある。

允恭天皇陵

■軽の兄妹
允恭天皇(19)の崩御後は木梨之軽王が皇位を継ぐことになっていたが、それまでの間の物忌みの期間に同腹の妹である軽大郎女と通じてしまった。この風聞が広まると、人々の心は木梨之軽王から離れていき、弟の穴穂命の方へ移っていった。木梨之軽王は人心の帰趨を恐れ、大臣の「大前小前宿禰(おほまえをまへのすくね)」の家に逃げ込んで武器を用意した。
穴穂命側も負けじと武器を揃えていった。この時の矢は今と同じ鉄の鏃を持っていて、名前を穴穂箭(あなほや)と言う。そして軍隊を連れて大前小前宿禰の家を取り囲んだ。宿禰は歌で穴穂命に対して兄君に矢を使わないように懇願し、承知してもらうと、木梨之軽王を捕まえて差し出した。その後木梨之軽王は伊余国(愛媛県)の温泉へ流罪となった。見送りの歌を謳ってお別れを惜しんでいた軽大郎女だが、兄を慕う気持ちは押さえきれず、兄の後を追って伊余国まで向ってしまった。そして最後に2人は心中してしまった。

(39)安康天皇(20)

■安康天皇(20)は石上(奈良県天理市)に穴穂宮を作って天下を治めた。

目弱王の復讐
安康天皇(20)、坂本の臣などの祖先である根の臣を大日下王の下に遣わして、大下日王の妹である若日下部命を弟の大長谷命の妻に差し出すように言わせた。大下日王は喜んで応えたが言葉だけでは無礼だと思い、結納の印として押木の玉鬘を根の臣に持たせ献上した。しかし、この根の臣は邪者だったので、その玉鬘を盗み取った上にさらに大下日王を讒言した。天皇は激高して、大下日王を殺してしまい、その正妻の長田大郎女を奪って自分の大后にしてしまった。(※なんともはや)
・ある日安康天皇が大后の膝枕で寝ている時、7歳になっていた「目弱王(まよわのみこ)」(大下日王長田大郎女の間の子)が神殿で一人で遊んでいた。安康天皇(21)はそのことに気付かず后に対して「お前の子の目弱王が成人して、私があの子の父を殺したと知ったなら、私に復讐しようとするかも知れないなあ」と話してしまった。それを聞いてしまった目弱王は天皇が眠り込んだすきにそばにあった太刀で天皇を殺し、「都夫良意富美(つぶらおほみ)」の家に逃げ込んだ。

安康天皇(20)はこの時56歳。御陵は菅原の伏見の岡(奈良市宝来付近)にある。

安康天皇関連

安康天皇(20)が殺されたことを聞きつけた大長谷命(=後の雄略天皇(21))はすぐさま兄の境之黒日子王のもとへ駆け込んだ。「兄上どうなさるのですか?」と問うたが、境之黒日子王は気にもとめず安閑としていた。これに逆上した大長谷命境之黒日子王を斬り殺してしまった。(※オイオイ)
・そしてもう一人の兄君である八瓜之白日子之王のもとへ行ったが、この兄も安閑としていたので、小和田(奈良県明日香村)まで引きずって行き、そこへ穴を掘って生き埋めにして殺してしまった。(※オイオイオイ)
大長谷命は単独で軍隊を組織し都夫良意富美の家を取り囲んだ。そして「私がかねて言い交わした乙女は在宅か?」と言った。その声を聴いた都夫良意富美は表に現れ武器を置いてこう言った。「娘の『訶良比売(からひめ)』は差し上げます。しかし私は参上できません。家来が主君の家に逃げ込むという話は聞きますが、逆は聞いたことはありません。私が貴方に勝てる訳もないのですが、一縷の望みを持って賤しい私の家においでになった小さな御子をお棄てするわけには参りません。」そう言って家の中に戻っていった。そして目弱王に万策尽きたことを伝えると、目弱王は「仕方ありません。私を殺してください」と命じた。そして都夫良意富美目弱王を斬ると返す刀で自害した。

■馬飼牛飼
・その後しばらくしてのこと。佐佐紀の山の君の祖先である「韓ふくろ」という者が大長谷命に言うには「淡海の久多綿の蚊屋野には鹿などの獣がたくさんいて、その足は薄の如く、その津のは枯枝の如くだそうです。」そこで大長谷命は従弟の「市辺之忍歯王(いちのべのおしはのみこ)」を誘って見に行った。そして別々の御殿を作って泊まった。翌朝、市辺之忍歯王は特別な理由もないが夜明け前に大長谷命の御殿に向い、供の者に「御子はまだお目覚めでないのか?ならば夜も明けたので狩場に出かけましょうと伝えてくれ」と言い自分は狩場の方に向かった。その供の者は讒言をして「変なことをおっしゃっていたのでお気を付けください。」と伝えた。
大長谷命は衣の下に鎧を隠しを追った。そして追いつき馬を並べて行く途中でいきなり矢を放ち市辺之忍歯王を射落として斬った。死骸は馬の飼葉桶にいれて墓を築くことなく地面と同じ高さに埋めてしまった。(※いきなりですか?元々暗殺意図があったのでなければ随分乱暴な)
市辺之忍歯王の御子の2人である「意富祁王(おほけのみこ:後の仁賢天皇(24)」と「袁祁王(おけのみこ:後の顕宗天皇(23)」はこの事件を聞き、難を逃れるために、とりあえず山城国苅羽井に逃げた。途中で眼の縁に入れ墨をした猪飼と名乗る老人に乾飯を奪われるなどあったが、なんとか玖須婆の河を渡って針間(=播磨)に至った。そして、その国の人である「志自牟(しじむ)」の家に行き、身分を隠して馬飼牛飼として働いていた。

(40)雄略天皇(21)

■雄略天皇(21)は大和の長谷に朝倉宮(奈良県桜井市)を作って天下を治めた。

雄略天皇朝倉宮

■この天皇の御子は、以下の通り。

雄略・清寧・顕宗・仁賢天皇系図

・この天皇はかつて殺された大日下王の妹である「若日下部命(わかくさかべのみこと)」を妻としたが御子はいない。

・また、約束通り都夫良意富美の娘の「訶良比売(からひめ)」を妻として、その妻に生ませた子は、
1)「白髪命(しらがのみこと)」別名を「白髪大倭根子命(しらがのおほやまとねこのみこと)」→後の清寧天皇(23)
2)「若帯比売命(わかたらしひめのみこと)」

・この白髪命の名を記念する為に白髪部を定めた。
・また、長谷部の舎人を定め、河瀬の舎人を定めた。
・この天皇の御世に大陸から呉人が渡海してきた。その呉人をおいたところを呉原という。

雄略天皇(21)と白い犬
・まだ若日下部命が河内にいたころ、天皇が求婚の為に河内へ出かけ、屋根の上に高く堅魚木(かつおぎ)をつけた家を見つけた。天皇が誰の家かと問うと、側の者が志幾(しき)の大県主の家と答えた。すると天皇は荒々しく「そいつめ、自分の家を大王の宮殿に似せて作ったのか」と言い放ち、人にその家を焼かそうとした。するとその大県主は恐れをなして畏まって申し上げた。「賤しいものですので、それくらいの頭しかございません。と平謝りに謝った。そして、白い犬に布を着せて鈴をつけたものを「腰佩(こしはき)」という者に綱をとらせて天皇に献上した。天皇はこれは良いものを貰ったと喜び、若日下部命への結納とした。若日下部命に献上しようとしていたところ、若日下部命の方から天皇に「東の大和から太陽を背にして河内においでになるのはよろしくないことでしょう。私の方から大和に向います」と言った。天皇も納得して長谷宮に戻った。

■赤猪子(あかヰこ)
・ある時、天皇が三輪山の辺りをそぞろ歩きをしていると、1人の麗しい少女を見かけ名を尋ねた。少女は「引田部の赤猪子と申します」と答えた。天皇は「お前はどこにも嫁に行くな。近いうちに召しだすから」と命じて宮殿に戻った。しかし、その後いっこうに音沙汰がなく、とうとう80年の月日が過ぎてしまった。
赤猪子は年老いてみすぼらしくなったの今さらお召を待っているという訳ではないが、ここまで待っていた心持を天皇にも伝えたいと思い、結納を揃えて参上した。その老婆に面会した天皇はその老婆をみて「さて、どういう訳で参上した来たのだ」と問うた。老婆の説明を聞いた天皇はたいそう驚き申し訳ない気持ちになった。妻にしたいとは思うものの、高齢であったのでさすがに遠慮して、4首の歌と引き出物を渡して故郷に帰らせた。(※何と気の毒な)

■吉野の少女と蜻蛉(あきず)
・天皇が吉野の離宮に出かけた時、吉野川のほとりで麗しい少女を見つけた。その少女を召し入れた後、長谷宮に戻った。再び吉野へ行った折り、以前少女と出会った場所に足台をおき、その上に座って少女に舞を踊らせた。
・同じく吉野の離宮に出かけた際、阿岐豆野(あきずの)で狩をして遊んでいた。その時虻が飛んできて天皇の腕を刺した。すると続いてとんぼがやってきてその虻を喰って飛び去った。天皇は、これは面白いと歌をよんだ。
・この地はなので阿岐豆野と言う。

■葛城山
・ある日天皇が葛城山を登っていると大きな猪が現れた。天皇は矢を放ったが猪は怯みもせず唸り声をあげて迫ってきた。天皇は恐ろしくなって榛の木に登って歌を詠んだ。

・また別の時だが、葛城山を登っていると、向こうの尾根伝いに着ているものといい、お付きの者の数といい、全く同じ隊列で登っている一行を見つけた。天皇は「この大和には自分以外は君はいないはずだ。彼らは何者なのだ」と訝って、お供の者に問いたださせた。すると向こう側も同じことを言ってくるではないか。天皇は激怒して矢を射しつがえようとすると相手方も同じように矢をつがえた。そこで天皇が「それなら名を名乗れ。名乗った上で矢を放とう」と言うと、向こうから「では、私から答えよう。私は悪事も一言、良事も一言で決めてしまう言離(ことさか)の神で、葛城の『一言主之大神(ひとことぬしのおほかみ)』である」と答えてきた。
・天皇は恐れ入り、弓矢や官吏たちの着ている衣服まで脱がさせて一言主之大神に差し上げた。一言主之大神はそれを喜んで受け取り、天皇の一行を長谷の山の登り口まで見送った
一言主之大神はこの時初めて姿を現わした。

葛城一言主神社

袁杼比売の歌・天語(あまがたり)歌
・またこの天皇が丸邇の佐都紀の臣の娘である「袁杼比売(をどひめ)」を妻に貰い受けるため春日に出かけた。その道中でその袁杼比売に出会ったが、袁杼比売は恥ずかしがって岡の方へ逃げ隠れた。そこで(金鋤で掘り返して探してやろうというような)歌を詠んだ。従って、この辺りを金鋤の岡という。

・また、天皇が長谷宮で新嘗祭の酒宴を開いた時、ある采女が大盞を手に天皇に酒をすすめた。その時、槻の木から葉が1枚落ちてきて、その大盞の中に落ちた。采女はそれに気づかず天皇に差し出したところ、天皇はその落ち葉を見つけ、怒って采女を打倒し斬り殺そうとした。采女は「お許しください。申し上げたいことがございます」と言い。歌を歌い、まるで伊邪那岐・伊邪那美がその矛でかき混ぜて国を作るような慶事でございます」と言ったので采女は許された。

■この天皇は124歳で崩御。御陵は河内の多治比の高ワシ(大阪府松原市)にある。

雄略天皇陵

(41)清寧天皇(23)

■清寧天皇(23)は大和の伊波礼に甕栗(みかくり)宮(奈良県桜井市)を作って天下を治めた。

■この天皇には大后も御子もなかったので、崩御された後に天下を治めるべき御子がいなかった。そこで日嗣の御子を探してると、市辺之忍歯王の妹で「忍海郎女(いおしみのいらつめ)」別名を「飯豊王(いいとよのみこ)」が葛城の忍海の高木の角刺(つぬさし)宮にいた。

清寧天皇関連

■二人の少年の舞
・話は変わって、山部の連、「小楯(おたて)」が針間に国の長官に任命され赴任した時、志自牟という者が酒宴を開いているところに臨んだ。宴もたけなわになって、順序に従って全員が一人ずつ舞を始めた。火焚きの2人の少年にも舞わせようとしたが、2人が譲りあっていた。座の一同は火焚きの少年が礼儀正しく譲りあっているのを見ておかしくて笑っていた。ついに兄が舞い、弟が舞おうとしていた時に語る言葉に「私は大江之伊邪本和気命(履中天皇)の御子である市辺之忍歯王のその御子...」とあったのを聞いて一同は驚いた。小楯は他の者を追い出して、2人の御子を膝の上に乗せて泣き悲しんだ。そして、民を集めて仮の宮殿を作って2人を住まわせ、都に早馬を送った。
・2人の叔母にあたる飯豊王は、この知らせを聞いてたいそう喜び、2人を角刺宮に引き取った。
・平群の臣の祖先の志毘臣が歌垣(注:男女が互いに求愛の歌を歌い合う場)で、袁祁王(弟)が求婚しようとしていた菟田首らの娘で「大魚(おふを)」という乙女の手を取った。これに負けじと袁祁王(弟)も歌垣に参加し、2人のやり合いが朝まで続いた。
・その朝、意富祁王(兄)と袁祁王(弟)は謀をたて、「朝廷の連中は、朝は朝廷に行き昼には志毘の家に集まる。今、志毘は寝ているだろうし、まだ誰も来ていないだろう。今がチャンスだと思う」と話し合い、そして軍を起こし志毘の家を取り囲み、殺してしまった。
その後、2人は日嗣の御子の座を譲り合った。意富祁王は弟の袁祁王に「針間の志自牟の家に住んでいた時、もしお前が名前を明かさなかったら、今、こうして天下を治める君にはなれなかった。これはお前の功績だから、私は兄であるが、やはりお前がまず天下を治めるべきだ」と言い、弟に譲りました。袁祁王も、辞退することが出来ず、弟が先に天下を治めた。

(42)顕宗天皇(23)

顕宗天皇(23)は近飛鳥に宮殿を作って8年間国を治めた。

■この天皇の御子は以下の通り。
・「石木王(いはきのみこ)」の娘である「難波王(なにはのみこ)」を妻としたが御子はなかった。

■父君の仇
顕宗天皇(23)は父の亡骸を探し求めていたが、ある時淡海国の賤しい老婆が参上して「私が知ってますよ。その歯をお見せすれば確かでしょう。」と言った。市辺之忍歯王の歯は先が3つに別れていたからである。そこで人民に掘らせてみると、確かに老婆の言う通り遺骨が見つかったので、蚊屋野の東の山に陵(はか)を作り、韓ふくろの子供たちに墓守をさせた。その後。遺骨を大和へ移した
・天皇は近飛鳥宮に戻ると、この老婆を召し寄せ、「置目老媼(おきめおみな)」という名前を与え、宮殿で手厚くもてなした。更に老婆の家を宮殿の近くに作り、毎日のように呼び出した。しかし置目老媼は老いを理由に故郷へ帰ることを望み、天皇もこれを許し、置目老媼を見送りながら歌を詠んだ。

・そして顕宗天皇(23)は昔逃亡中に、彼らから乾飯を奪った猪飼を探し出し飛鳥河の河原で斬った。またその一族の者は膝の筋を斬った。それ故に、今に至るまで、その子孫が大和に上る日には足を自然と引きずってしまう。この猪飼は巧みに行方をくらましていたが、ついにその居場所を示されてしまったので、この土地を志米須(しめす)と言う。(※しつこいと思う)

顕宗天皇(23)は父を殺した雄略天皇(21)を恨み、その魂にでも復讐しようと思った。そこで、その雄略天皇(21)の御陵を破壊しようとして、人を遣わそうとした時、兄の意富祁王が「この御陵を破壊するのに他人を遣ってはいけません。私が自ら行き、天皇の考え通りに破壊して参りましょう」と言った。弟の顕宗天皇(23)も同意し、兄の意富祁王が自ら河内国の多治比に行き、少しだけ御陵の側を掘るだけで都へ戻った。
・兄の意富祁王が戻ったことを報告すると、天皇は、兄があまりにも早く帰ってきた来たどのように壊したのかをと尋ねました。すると、兄は御陵の側の土を少しだけ掘ってきました。それを聞いた天皇はやや不満で、「父の仇を報いたいと思うなら陵を完全に破壊して下さると思っていたのに、なぜ少しだけしか掘らなかったですか?」と尋ねた。すると兄は「そのようにした理由があります。父の仇を報いたいとと思うのは当然ですが、一方でその雄略天皇(21)は父の仇ではありますが、同時に私たちの従父でもあり、そして、天下をお治めになった天皇でもあります。ここで今、我々が怨みにばかり囚われて天皇の陵をことごとく破壊したならば、後世の人々は必ず非難するでしょう。しかし、父の仇は報いなければならない。なので、その陵の傍らを少しだけ掘りました。この辱めによって後世の人にその志を示すに十分だと思われます。顕宗天皇(23)は「それもまた道理です。お言葉どおりで結構です。」と。

■その後、顕宗天皇(23)が崩御すると、すぐに兄の意富祁王が後を継いだ。顕宗天皇は38歳で崩御。天下を治めた期間は8年。御陵は片岡の石坏岡(イワツキノオカ:奈良県香芝市)の上にある。

顕宗天皇陵

(43)仁賢天皇(24)

※何故かここから最後まで急に速くなります。

仁賢天皇(24)は大和石上に広高宮を作って天下を治めた。

仁賢天皇広高宮

■この天皇の御子は以下の通り。
雄略天皇(21)の御子である「春日大郎女(かすがにおほいらつめ)」を妻として生ませた子は、
1)「橘之中比売命(たちばなのなかつひめのみこと)」
2)「高木郎女(たかきのいらつめ)」
3)「財郎女(たからのいらつめ)」
4)「久須毘郎女(くすびのいらつめ)」
5)「手白髪郎女(たしらがのいらつめ)」
6)「小長谷若雀命(をはせのわかさざきのみこと)」→後の武烈天皇(25)
7)「真若王(まわかのみこ)」

・また丸邇の日爪(ひつま)臣の娘である「糠若子郎女(ぬかのわかごのいらつめ)」を妻として生ませた子は、
8)「春日山田郎女(かすがのやまだのいらつめ)」

(44)武烈天皇(25)

■武烈天皇(25)は長谷に列木(なみき)宮を作って、そこで8年間天下を治めた。
■この天皇には日嗣の御子がいなかった。そこで御子の代わりに小長谷部を定めた。
■この天皇の御陵は片岡の石圷(いわつき)の岡(奈良県香芝市)にある。
■この天皇の崩御後は、応神天皇(15)の五世孫の「袁本杼命(をほどのみこと)」を近淡海国から呼んで、手白髪郎女と一緒にして天下を治めさせた。

武烈天皇関連
武烈・継体天皇系図

(45)継体天皇(26)

継体天皇(26)は大和の伊波礼(奈良県桜井市)に玉穂宮を作って天下を治めた。

体天皇玉穂宮

■この天皇の御子は以下の通り。(自分が遠縁だからでしょうか、こちらの妻たくさん子だくさん(^^;))

・三尾の君などの祖先である「若比売(わかひめ)」を妻として生ませた子は、
1)「大郎子(おほいらつこ)」
2)「出雲郎女(いづものいらつめ)」

・尾張連などの祖先である凡(おおし)連の妹の「目子郎女(めこのいらつめ)」を妻として生ませた子は、
3)「広国押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)」→後の安閑天皇(27)
4)「建小広国押楯命(たけをひろくにおしたてのみこと)」→後の宣化天皇(28)

仁賢天皇(24)の御子である手白髪郎女を妻として生ませた子は、
5)「天国押波流岐広庭命(あめくにおしはるきひろにはのみこと)→後の欽明天皇(29)

息長真手王の娘である「麻組郎女(をくみのいらつめ)」を妻として生ませた子は、
6)「佐佐宜郎女(ささげのいらつめ)」→伊勢神宮の斎王になる

坂田大俣王の娘の「黒比売(くろひめ)」を妻として生ませた子は、
7)「神前郎女(かむざきのいらつめ)」
8)「茨田郎女(まむたのいらつめ)」
9)「馬来田郎女(うまくたのいらつめ)」

・茨田連の小望(おもち)の娘である「関比売(せきひめ)」を妻として生ませた子は、
10)「茨田大郎女(まむたのおほいらつめ)」
11)「白坂活日郎女(しらさかくひのいらつめ)」
12)「小野郎女(をののいらつめ)」別名を「長目比売(ながめひめ)」

・三尾国の加多夫の妹である「倭比売(やまとひめ)」を妻として生ませた子は、
13)「大郎女(おほいらつめ)」
14)「丸高王(まろこのみこ)」
15)「耳王(みみのみこ)」
16)「赤比売郎女(あかひめのいらつめ)」

・阿倍の「波延比売(はえひめ)」を妻として生ませた子は、
17)「若屋郎女(わかやのいらつめ)」
18)「都夫良郎女(つぶらのいらつめ)」
19)「阿豆王(あづのみこ)」

物部荒甲之大連大伴之金村連を遣わせて、命令に従わず無礼な筑紫の君の「石井(いはヰ)」を討った。

継体天皇(26)は43歳で崩御。御陵は三島の藍(大阪府茨木市)にある。

継体天皇陵

(46)安閑天皇(27)

安閑・宣化・欽明・崇峻天皇系図

安閑天皇(27)は大和の勾(まがり)に金箸宮(奈良県橿原市)を作って天下を治めた。
■この天皇には御子がなかった。
■御陵は河内国の古市の高屋村(大阪府羽曳野市)にある。

安閑天皇金箸宮
安閑天皇陵

(47)宣化天皇(28)

宣化天皇(28)は大和の檜隈に廬入野(いおりの)宮を作って天下を治めた。

宣化天皇廬入野宮

■この天皇の御子は以下の通り。
仁賢天皇(24)の御子である「橘之中比売命(たちばなのなかつひめのみこと)」を妻として生ませた子は、
1)「石比売命(いしひめのみこと)」
2)「小石比売命(おいしひめのみこと)」
3)「倉之若江王(くらのわかえのみこ)」

・河内の「若子比売(わくごひめ)」を妻として生ませた子は、
4)「火穂王(ほのほのみこ)」→志比陀君の祖先
5)「恵波王(えはのみこ)」→韋那君の祖先

(48)欽明天皇(29)

■欽明天皇は大和に師木島の大宮(奈良県桜井市)を作って天下を治めた。

欽明天皇師木島大宮

■この天皇の御子は以下の通り
宣化天皇(28)の御子である石比売命を妻として生ませた子は、
1)「八田王(やたのみこ)」
2)「沼名倉太玉敷命(ぬなくらふとたましきのみこと)」→後の敏達天皇(30)
3)「笠縫王(かさぬひのみこ)」

石比売命の妹である小石比売命を妻として生ませた子は、
4)「上王(かみのみこ)」

・春日日爪臣の娘である「糠子郎女(ぬかこのいらつめ)」を妻として生ませた子は、
5)「春日山田郎女(かすがのやまだのいらつめ)」
6)「麻呂古王(まろこのみこ)」
7)「宋賀之倉王(そがのくらのみこ)

・大臣の宋賀之稲目宿禰の娘である「岐多斯比売(きたしひめ)」を妻として生ませた子は、
8)「橘之豊日命(たちばなのとよひのみこと)」→後の用明天皇(31)
9)「石隈王(いはくまのみこ)」
10)「足取王(あとりのみこ)」
11)「豊御気炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)」→後の推古天皇(33)
12)「麻呂古王(まろこのみこ)」
13)「大宅王(おほやけのみこ)」
14)「伊美賀古王(いみがこのみこ)」
15)「山代王(やましろのみこ)」
16)「大伴王(おほとものみこ)」
17)「桜井之玄王(さくらヰのゆみはりのみこ)」
18)「麻奴王(まぬのみこ)」
19)「橘本之若子王(たちばなもとのわくごのみこ)」
20)「泥杼王(とねのみこ)」

岐多斯比売の姨(おば)である「小兄比売(をえひめ)」を妻として生ませた子は、
21)「馬木王(うまきのみこ)」
22)「葛城王(かづらきのみこ)」
23)「間人穴太部王(はしびとのあなほべのみこ)」
24)「三枝部穴太部王(さきくさべのあなほべのみこ)」別名を「須売伊呂杼(すめいろど)」
25)「長谷部若雀命(はつせべのわかさざきのみこと)」→後の崇峻天皇(32)

(49)敏達天皇(30)

敏達天皇(30)は大和に他田(おさだ)宮(奈良県桜井市)を作って天下を治めた。

敏達天皇 他田宮

■この天皇の御子は以下の通り。

敏達天皇系図

・異母妹の豊御気炊屋比売(後の推古天皇(33))を妻として生ませた子は、
1)「静貝王(しづかいのみこと)」別名は「貝蛸王(かいだこのみこ)」
2)「竹田王(たけだのみこと)」別名は「小貝王(をかひのみこ)」
3)「小治田王(をはりたのみこ)」
4)「葛城王(かつらぎのみこ)」
5)「宇毛理王(うもりのみこ)」
6)「小張王(おはりのみこ)」
7)「多米王(ためのみこ)」
8)「桜井玄王(さくらヰのゆみはりのみこ)」

・伊勢の大鹿首の娘である「小熊子郎女(をくまこのいらつめ)」を妻として生ませた子は、
9)「布斗比売(ふとひめのみこと)」
10)「宝王(たからのみこ)」別名は「糠代比売王(ぬかでひめのみこ)」又は「田村王(たむらのみこ)」

息長真手王の娘である「比呂比売命(をくまこのいらつめ)」を妻として生ませた子は、
11)「忍坂日子人太子命(おさかのひこひとのみこのみこと)」別名は「麻呂古王(まろこのみこ)」
12)「坂騰王(さかのぼりのみこ)」
13)「宇遅王(うぢのみこ)」

春日中若子の娘である「老女子郎女(をくまこのいらつめ)」を妻として生ませた子は、
14)「難波王(なにはのみこ)」
15)「桑田王(くはだのみこ)」
16)「春日王(かすがのみこ)」
17)「大俣王(おほまたのみこ)」

■忍坂日子人太子命の御子は以下の通り。
・異母妹の田村王を妻として生ませた子は、
1)「舒明天皇(34)
2)「中津王(なかつみこ)」
3)「多良王(たらのみこ)」

漢王(あやのみこ)の妹である「大俣王(おほまたのみこ)」を妻として生ませた子は、
4)「智奴王(ちぬのみこ)」
5)「桑田王(くはだのみこ)」

・異母妹の桜井玄王を妻として生ませた子は、
6) 「山城王(やましろのみこ)」
7) 「笠縫王(かさぬひのみこ)」

敏達天皇(30)の御陵は河内の科長(しなが)にある。

敏達天皇陵

(50)用明天皇(31)

用明天皇(31)は大和国に池辺宮(奈良県桜井市)を作って天下を治めた。

用明天皇 池辺宮

■この天皇の御子は以下の通り。

用明天皇系図

稲目宿禰の娘である「意富芸多志比売(おほぎたしひめ)」を妻として生ませた子は、
1)「多米王(ためのみこ)」

・異母妹の間人穴太部王を妻として生ませた子は、
2)「上宮之厩戸豊聡耳命(うへのみやのうまやどのとよとみみのみこと)」→ご存じ聖徳太子
3)「久米王(くめのみこ)」
4)「植栗王(えくりのみこ)」
5)「茨田王(まむたのみこ)」

・当麻の倉首(くらびと)の比呂の娘である「飯女之子(いひめのこ)」を妻として生ませた子は、
6)「当麻王(たぎまのみこ)」
7)「須賀志呂古郎女(すがしろこのいらつめ)」

用明天皇(31)の御陵は初めは石寸(いわれ)池のほとりにあったが、後に科長の中の陵(大阪府太子町)に移された。

用明天皇陵

(91)崇峻天皇(32)

崇峻天皇(32)は大和国の倉椅(くらはし)に柴垣宮を作って4年間天下を治めた。

崇峻天皇柴垣宮

■この天皇の御陵は倉椅の岡の上にある。

崇峻天皇陵

(92)推古天皇(33)

推古天皇(33)は大和国に小治田(おわりだ)宮(奈良県明日香村)を作って37年間天下を治めた。

推古天皇小治田宮

■この天皇の御陵は初めは大野の岡にあったが、後に科長の大陵(大阪府太子町)に移された。

推古天皇陵

お終い!
余韻もなく最後はバタバタと終わった感じでした。