見出し画像

gamescomの思い出

gamescomは、ドイツのケルンで開催される、今や世界最大のゲームイベント。ソニー時代に何度か訪問する機会はあったものの、その距離や手間に尻込みし、実際にこの目で見ることはなかった。

今年、集英社ゲームズの山本として、初めて赴く機会をいただいた。自社出展タイトルとしての盛況ぶりはここでは置いておいて、滞在最終日にやってきた、僕自身としては非常にメモリアルな出来事について、ここでは語らせていただく。

8月20日に渡独してから4日経った、8月24日。
午後のヤニ下がった時間にバックヤードで談笑していると、同僚の森さんから「ブースに戻れます?」とLINEがきた。

どうも、僕にサインを求めている人が来られているらしい。

これまで関わってきたゲームのおかげで、極々稀にサインを求められることがある。
海外では、過去「天誅」のパッケージにサインを求められたことがあったり、今年の台北ゲームショーでは、空港を出た瞬間「Bloodborne」のパッケージを持った若者が駆け寄り、サインしてくださいと言ってくれたりもした。Bloodborneはクリエイティブ面で僕はほとんど関わっていないので申し訳ない気もしつつ、謹んで名前を書かせてもらった。

海外のセールスで言えば今回もその2本のどちらかだろうなウヒヒ…と、迷いそうな広いホールを移動して大急ぎでブースに戻る。

そこには、40代前半くらいの、瘦身の男性が待っていた。ベルギー人のDidierさんという方だった。

次の瞬間、彼の手元を見て驚いた。
その手には、「天誅」でも「Bloodborne」でもなく、僕が最初に勤めた会社アスキーで作った「アルディ ライトフット」というゲームの、SNES版(日本のスーパーファミコン)のカートリッジが握られていたのだ。

このゲームは、僕が20歳のときにプランナーのアルバイトとした入ったアスキーで、初めてディレクターとして作ったゲームだった。

それは、当時の課長(が27歳とかだった)から、「100万本売れる横スクロールのアクションゲームを作れ」といきなり乱暴なことを言われ、考え始めた企画だった。20歳そこそこの、なんの経験もないバイトの小僧にそんなミッションを振るなんて今ではとても考えられないことだとは思うが、当時は割と当たり前の出来事だった。

スタッフ、といっても、同じタイミングでバイトとして入ったアーティストと、2年後に新卒として入社してくるエンジニア、3人で作り始めたゲームだった。

その時点でアスキーに入って僕がやっていたことといえば、夜な夜な「モトローダー」で対戦をしたり、GTRを買った課長が、富士山の麓で走る姿をビデオに撮りたいからカメラマンとして着いてこいということで撮影したり(なにそれ?)、ターボファイルというファミコン用外部記録メディアの、セーブデータがちゃんと合っているか16進数を読み上げたり(なにそれ?)、周辺機器の部品として使用する針金?が何回曲げたら折れるかのテスト(なにそれ?)をやったりなどで、開発の仕事と言えるのは、「忍者らホイ!」「フリートコマンダーVS」のデバッグと、唯一プランナーとして、「かんたん手帳リフィル君」という、MSX用のリフィル印刷ソフト(なにそれ?)の、実用的なものからバカなものまで50種類のリフィルを考えることくらいだった(初めて説明書も書いて入稿した)。

そんな、ミルクせんべいくらいうっすい制作経験値の、ゲームの作り方の右も左も分からない若僧に、かつゲームデザインという言葉も、レベルデザインという概念も何もない時代に、100万本売れるゲームを作れというわけです、当時のゲーム業界は。

それでも、スーパーマリオワールドを何度も何度も遊び倒し、教科書として、なぜこれはこうなっているのか?なぜヨッシーに乗っても8ドットくらいしゃがめる仕様を入れたのか…などと、画面上に表現されていることに自分なりに意味を見出し、応用して自分の企画書に焼き付けていった。企画書を書くといっても、パソコンじゃないですよ。ワープロです。図を入れるとか至難の業だった。

表紙に書くべきゲームタイトルは、課長が100万本売れるゲームをといったので、とりあえず「M プロジェクト」と書いた。ミリオンのMだ。しかし、100万本売れるということがどういうことなのか、ゲームビジネスのなんたるかが、端から端までまったく分からない。何が詰まっていれば100万本売れるのかなど、分かるはずもない。だから、もっとも好きだったジャンル、横スクロールアクション、今でいえば2Dプラットフォーマーとして自分がやりたいことをとにかく詰め込んだ。

最初に決めたのは、

・ジャンプが基本のアクション(マリオが大好きだから)
・シンプルだがストーリーがある(マリオにはストーリーがないから)
・ただし、ゲーム中はテキストを一切排除する(後述)
・横スクロールが基本だけど、カットバックの演出は入れたい(ポリゴン前夜、ゲームが演出という意味で映画に近くなる確信だけは自分の中にあったから)

この辺りがコアだった。
「ゼルダ神トラ」の影響か、石を押し引きしたり、モノを持ったりする仕様も入れ、それはそれでユニークな立ち位置の2Dプラットフォーマーの企画にはなったように思う。

ゲーム中のテキストを一切排除したかったのは、ゲームが物語と出会い、たくさんの文字で"説明"がされるゲームが増大していたこと、また、「スーパーメトロイド」の、物言わず壁ジャンプを教えてくれる謎の生物や、「ロックマン」で口笛を吹いて去っていくブルース、開発中に発売になった「アウターワールド」の存在などに触れ、「その場で起きていることのみで何かを語るゾワゾワ感」に震えていたから。

だから、謎の冒険家が助けてくれたり、ライバルだと思っていたやつが巨大ミミズの胃液で溶けて死んでいたり、ヒロインがさらわれたりするシーンを、言語的説明なしでどうしても表現したかったのだ(最初の設定とステージタイトル以外)。

コンセプトを決め、アクションを決め、ステージを決め、シナリオを書き、絵コンテを描き、座標を指定し、すべてのギミックを考えてバランス調整もやり、デバッグもやった。解説書も書いたしパッケージの文言も決めた。およそ企画が絡むことに関しては、全部自分でやり切った。

でも、若いチームだったのでコアメンバーそれぞれに作りたいゲームがあり、特にマリオを作りたい僕と、ストライダー飛竜を作りたいエンジニアの間では、首都高ならぬ平行線バトルが日常のように行われた。
決める存在のディレクターの僕だったが、うまく人を説得できない自分のバカさ加減に、学の薄さに、テクニックの無さからくるストレスに蕁麻疹が止まらず、抗ヒスタミン剤を腕に塗る日々が続いた。

完成までは、確か5年近くかかった。僕は25歳になっていた。途中、「大戦略エキスパート」の開発に人を取られたりしながらも、なんとかゴールに辿り着いたのだった。
マスターアップの瞬間などは、まったく憶えていない。

自分で遊んでも、拙いゲームだった。
でも、確かにヘンなエネルギーはあるゲームだったと今でも信じている。
リリースされて以降触ったことはないが、数年前のコロナ禍、ソニー時代に同僚だったフランス人のnicoさんに、あのゲームマサミさんが作ったってホント?とDMをもらったことがある。そうです、と返信をしたら、「あれは宝物のようなゲームだよ(DeepL翻訳)」と、海外の人が遊んだらしき動画のリンクとともに返事がきた。

…え、マジで?
30年近い時を経てプレイ動画を見てみたが、やっぱり拙い横スクロールアクションゲームがそこにはあったのだった。

結局どれくらい売れたのかはよく分からない。
そんなに売れていないことは知っていた。
海外で発売されるとも聞いていたが、完成品のそのカートリッジなど、見たこともなかった。

その、見たこともなかったカートリッジが、日本から14時間掛かったドイツの、ケルンの、ホール10の、アスキーから数えて4社目として働く集英社ゲームズブースで、目にすることになったのだ。

たぶん、このゲームを作らなければ人生が交わることのなかったベルギー人が、そのカートリッジを持って立ってくれていたのだ。

距離と時間とを隔て、飛び越え、31年ぶりに自分が作ったゲームを物理的に持って立つそのベルギー人を見た瞬間、僕は膝から崩れ落ちそうになった。Thank You!!としか言えなかった。それしか言えないことが、申し訳なかった。英語を勉強しておけばよかったと、生きてきて初めて、心から思った。

ゲームを作るってどういうことだろう。
僕は考える。
それは、大きな川に小さな小石を投げ入れるようなものなのかもしれない。
小さな石は水面に着水し、小さな波紋を生むが、それはあっさりと雲散霧消し、何事もなかったかのように川はまた流れ続ける。
でも、小さな波紋が人知れず、自分すらも気付かず、どこかに届いていることもある。
日本の、東京の、表参道から開発中に引越しした初台のオフィスにへばりつきながら投げた小石が、ドイツの、ケルンで出会うことになるベルギー人に届き、僕を待ってくれていることだってあるのだ。
それが、とてつもなく嬉しかった。

小さな、そして少し尖った小石を大河に投げ込んだ90年代、あの頃の自分。

最初で最後の、
Director Masami Yamamoto

お前、よく頑張ったよ。

そしてありがとう、Didierさん!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?