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必要としてもらえて、必要としてもらえるものは何か。必要としてもらえる場所はどこなのか。

必要としてもらえて、必要としてもらえるものは何か。必要としてもらえる場所はどこなのか。自分も悩んでいるし、そうした何か悲しいことがあった時に、子供達にもそうしたことが起きて欲しくないと、そっと願うくらい。

幼稚園に行って、行きたくない、と。ずっと泣いているが、大丈夫だよ、いつも考えているし、大丈夫かなと。一方でこれって共依存を強めてないかなと。難しいな、どうしたものか、と。

ただ、だとしても、大切であることを伝えないで後悔するは1番嫌なので、なるべくそのタイミングで言えることは言おう、と。

父のお母さん、私から見たらおばあちゃん。おばあちゃんが亡くなる前に私は会うことができなかった。なぜか中学生の頃の野球部の部活で、物凄く勝ち進むから、と。

覚えているのは、レギュラーでもあるメンバーが、負ける事を織り込み済みで、夏期講習を入れてる事だった。

あれ、まじか、と。結局、父と妹のみがおばあちゃんに会いに行った。その翌年、おばあちゃんは亡くなった。その後悔がずっとあった。

なので、母のおばあちゃんが亡くなる前に、娘を抱いてもらえたことは本当に良かった。一方で、本当にそれでよかったのかなとも思う。おばあちゃんはどんな気持ちだったのだろう、と。

娘に、孫に迷惑をかけられないから、と。その想いが随所から伺えた。どんな気持ちだったのかなぁと。後悔先に立たず。ただ、娘が生まれた事で、母は元気になった。本当に本当に良かった。

本当にずっと心残りだった部分を娘、息子、そして、妻のおかげで元気になった。本当にありがたく思う。そして、一方で母が私の就活からのプロセスで苦しんでしまったように、妻も娘も息子も、いつかその苦しみに直面してしまったら、もう繰り返したくないな、そんな感じだろうか。

とか考えながら、今朝を迎えられて良かったな、これがいつまで続くかな、いつか訪れるかもしれない悲しい出来事に備えてみたいな感じもあるかもしれない。みたいな感じで、頑張ろうって感じだろうか。

やらなければ!みたいな。素晴らしい方々の警句を見ながら、なるほどぉ、このバランスの中で、絶妙な発言はどんなものだろうか、みたいな。

どうあると良いのだろうか。