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子供達に何を伝えるか、いつも悩んでいる。いつか一緒にいれなくなった時に、何を思い出してもらったり、最悪のことを回避してもらえるのか。

子供達に何を伝えるか、いつも悩んでいる。いつか一緒にいれなくなった時に、何を思い出してもらったり、最悪のことを回避してもらえるのか。

何か辛いこと、悲しいことがあった時に、子供たちにはそういう思いはして欲しくないなと思うので、どう処理するか、みたいなことに悩まないようにするにはどうしたらいいかなというのはよく思う。

一方で、押し付けるのも嫌だし、時間やお金の概念で苦しくことがあったら嫌だなと思い、そのあたりについて話す機会は増やそうかな、みたいなことを思いながら、自分がどれだけそれを意識して、やれているのか、みたいなのは反省する。

私以上にしっかりしているし、一方で、しっかりしているから、で1番の最悪の機会がいつか訪れてしまわないか、っていうのは、常に思う。

子供達同士で教え合ったり、助け合ったりしているのを見ると、安心するし、一方で、将来、揉めたりしないかな、と想像する。

どうだったらそれを回避できるのかな、と。自分ができること、やれることはなんだろうかなと。

思い出したり、色々思うが、一連の流れで通底しているのは、自分のことよりも、他人のことが気になってしまうことだろうか。

また、こどもの未来、家族の未来、とか言っていたのも、自分の親と子供に対する思いや、心残りから来ていた気はする。自分の解決されないモヤモヤや、思いが、結果としてそう投影されていたのだろうな、と。

事業承継の課題とかも、光が当たっていないものを、みたいなのもそんな感じがする。

なんとか今が続くのがありがたいし、嬉しい一方で、それがいつまで続くのかなというのも思うし、友達関係で悩んでいる子供達の姿を見て、自分の過去からの今に至る友人関係も考えたりする。

メディアや社会学などにハマったのが大学生の頃からで、自分を相対化して見ようと意識してきた気はする。

最近思うのは、繋いだり、継承したり、みたいな部分で、遺したいみたいな部分についての話を聞くことだろうか。

自分もそうだが、自分がメディアを語るには烏滸がましいし、ビジネスプロデューサーを名乗るのも烏滸がましい。もっとやれよ、という声が聞こえてくる。俺はやっているよ、みたいな。

ただ、意外と間に入ることがある。間に入って調整することが多い。でも、それが絶妙に上手いわけではない。ただ、最初はこじ開けるみたいなことは傾向として多い気はする。ただ、それは気づかれないことも多い。まあ、それはそれ以上に私も他の人の優しさに、やっていただいていることに気づいていないことの裏返しなのではとも思う。

妻が、娘が、息子が、母が、父が、妹が。その発言と行動の裏にある真意と、不満と、何があるのだろうか、と。まあ、みんな考えているだろうし、一方で、いい形で前に進むために、まず、そうか、そうかみたいなことを聞いたりはするが、そうしてもらってきたのだろうと思う。

本質的な課題解決とかってなんだとか思うが、本質的ってなんだろうか。言葉の定義が曖昧だと会話が揃わないこともある。でも、会話って揃えた方が、まあいいだろう。

ただ、相手の立場に立って行動する。その上で、自分もどうしたいのか、みたいな。真っ正直に、正直に、一応、正己っていうくらいなので、正直ではあるのだが、まあ、縁と流れとも思う。

結局は自分が望んでいる流れなのかなとも思ったりもする。知られなければないものと同じ。背中が遠いと感じる人たち。でも、実は近いようで近くなかったのかもしれない。

でも、どうだろう。自分はそもそもどこに立っているのだろうか。必要としてもらえる場所と、居場所と。圧倒的理想を掲げるみたいなことはできない。でも、それは負け癖で、志が低いのだろうか。

とか書いていると、まあ、そうだなあ。一体何に悩んでいたのだろうか、という気持ちにもなってくる。私が今やるべきことは、その家族を守ることであって、そこを達成することだろう。迷っている暇はないし、悩んでいる暇もない。

それぞれの人生があって、それをとやかく言う権利もない。それは子供達や両親や妹、そして、妻に対してもそうだろう。尊重しながら、自分もどうしたいかを尊重しながら、どうしていくべきか、というか、まあ、やるしかないので、頑張ろう。

と息子にアイスをあげながら思う水曜日の朝でした。