見出し画像

【この子らを世の光に】

この投稿を書いている8月23日、テレビ局による毎年恒例の「愛」の番組がおこなわれているようです。

この番組では毎年億単位の寄付金が集まるといいます。テレビという媒体の力の大きさを思い知らされます。そして、そのお金は様々な形での障がい者支援や災害からの復興支援などに使われているようです。

それはそれでとても大切なことですし、否定をするつもりはありません。このお金で救われる、助かる障がい者や被災者がたくさんいることでしょう。ウェブサイトによれば今年はコロナと闘う医療従事者への感謝や応援も含まれているようです。

私はこの番組を見たことはありません。見たことがないのにこのようなことを書く資格はないのかもしれません。

しかし、こと障がい者についていえば、障がい者の一人として常々思っていることがあります。それは、「障がい者は感動を与えなくてはならないのか」「感動を与えられない障がい者には『愛』は向けられないのか」、さらに言えば、「そもそも障がい者は救ってもらわなくてはならない存在なのか」ということです。

昭和初期に知的障がい児の処遇改善に尽くした糸賀一雄氏。「社会福祉の父」とも呼ばれている方です。その著書のうちの一冊は「この子らを世の光に」という題名です。「この子らに世の光を」ではありません。

同じ頃、北欧諸国で「ノーマライゼーション」という理念が生まれました。障がいの有無に関わらず、「普通に、ノーマルに」「主体的に」生活をする、というものです。

今、多くの駅にエレベータが設置されたり、トイレの位置や配置を知らせる放送が流れたりし、「モノ」のバリアフリー化は進んでいるように見えます。しかし、人々の「心」はどうでしょう?

視覚障がい者が白杖で地面を叩く音がうるさいと言われた、手話で会話をしているのを面白がってスマートフォンで動画撮影された、コンビニでお金をなかなか出せずにいたら後ろから「早くしろ、障がい者はこんな時間(朝の通勤時間帯)に来るな」と言われた、等など。まだまだこういった光景が街のあちこちで見受けられるようです

年に一度だけ、障がい者「だって」、障がいがある「のに」こんなことができるというという注目のされ方ではなく、全ての人が同じように生活をしてゆくにはどうしたら良いのかを考える。障がい者を「救う」のではなく、自立するためにどのような「支援」が必要なのか。

そのためには社会が変わるのを待つのではなく、障がい者も表に出てゆく必要があると思います。最近は車いす利用者や視覚障がい者を街で見かけることが多くなってきました。ご本人たちにとってはとても勇気の要ることかもしれません。
しかし、勇気がなくても当たり前のこととして外へ出かけ、普通に日常生活を送ることができる。障がいの有無に関係なく、互いが尊重し合い、支え合い、思いやりの心を持って生活する。そのような社会になって欲しいと願っています。