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ネット社会

今さらですが、ネット社会の怖さを実感することがありました。

先日、貯めているポイントカードのアプリをダウンロードしました。
その「マイ・ページ」には私がいつ、どこで、何を買ったかがすべて履歴として載っています。
大袈裟に聞こえるかもしれませんが、この情報の羅列を見て、背筋が凍る思いでした。
怖くなりました。

インターネットで何かを検索すると、その直後からそれに関係する広告が出てきますね。
そして、街のいたるところに監視カメラが設置されています。
私たちはすべて見られている、監視されている。
今はそういう社会なのですね。

クレジットカード、バーコードやQRコード決済、ポイントカードをいっさい使わず、支払いはすべて現金、電話は自宅の固定電話だけ、調べ物は百科事典(もうないか)、街を歩くときは顔を隠す。
そうでもしない限り、この「監視」から逃れることはできませんね。

こんなことを改めて認識して、サンドラ・ブロック主演の「ザ・インターネット」という映画を思い出しました。
まだこのような監視社会になっていない1995年に公開された映画。
当時、インターネットが普及し始めたものの、電話回線を使い、また、記憶媒体はフロッピーディスクでした。
主人公が自分の情報を書き換えられてしまい、自分が自分であることを証明出来なくなる。
悪の手から逃げようとしても、位置情報システムで居場所が分かってしまう。
正に今の社会でも起こりうることです。
この映画がそれを予言していたことに感心する以上に、それが現実になっている現代社会の怖さを感じました。

日を追って技術が進歩し、ますます便利になる。
それは喜ばしいことですが、同時に弊害もついて回る。

例えば、身近な物では、携帯音楽プレーヤーや携帯電話。
いつでもどこでも音楽を聴ける「ウォークマン」は画期的な商品でした。
また、同じく、いつでもどこでも電話をかけられる携帯電話、そして、スマートフォン。
これも私たちの生活を大きく変えました。
では、これらの物によって私たちの「心」は豊かになったでしょうか。
私はそうは思っていません。
携帯音楽プレーヤーで耳を塞ぎ、目は携帯電話に釘付け。
周りの人やことが目に入らなくなってはいないでしょうか。
「袖振り合うも他生(多生)の縁」という言葉があります。
今の社会では袖振り合っても「縁」どころか「関係ない人」になってはいないでしょうか。

通りすがりの困っている人に金をあげることはないにしても、困っている人がいることにすら気づかなくなってはいないでしょうか。

「宇宙の旅」を夢見た「2001年」はとっくに過ぎ、あの映画で描かれた宇宙ステーションが現実のものになっています。
鉄腕アトムの誕生日、2003年4月7日も過ぎ、人型ロボットが実用化されています。
こうして人々の夢が次々に実現してきています。
そして、近い将来、これも夢の一つだった車の自動運転が実現しようとしています。
さぞかし便利な世の中になることでしょう。

しかし、そのとき、私たちの「心」はいったいどうなっているのでしょう。
かつて、コンピュータが実用化されたころに「計算や記憶という作業はコンピュータに任せ、人は考えることに専念できるようになる」と言われていました。
しかし、実際はどうでしょう。

旅行の行き先も、行き方も、また、恋人への贈り物も、みんなインターネットが考えてくれる。
旅行ガイドブックを見ながら、或いは、一緒にゆく仲間と相談しながら、どこへどうやって行こうか、何を見ようか、何を食べようかなどと思いを巡らせることはない。

クリスマスには彼女に、彼に、何を贈ろうか、何を贈ったら喜んでくれるだろう、どんな顔で喜んでくれるだろう、どうやって渡そうかとワクワクしながら考えることもない。

これまでは人の話を聞いたり、何かを読んだりして想像するしかなかったことも「バーチャルリアリティ」が「現実」のものとして見せてくれる。

その結果、考えることだけでなく、想像すること、そして、人を思いやる気持ちもなくなってしまってはいないでしょうか。


今から2,500年前に生きた孔子は「恕(じょ)」や「仁」という言葉を使いながら思いやりの気持ちの大切さを説いています。

子貢問うて曰く、
「一言にして以って身を終うるまで之をおこなうべき者ありや。」
子曰く、
「其れ恕か。己の欲せざる所、人に施すこと勿れ。」

(弟子の)子貢がたずねて言った。
「一言だけで生涯、おこなってゆくべきものがありますか。」
先生は言われた。
「それは恕である。自分がして欲しくないことを、他人にしてはならない。」
(訳:井波律子)

或いは、

子曰く、
仁に里る(おる)を美と為す。
択びて(えらびて)仁に処らずんば(おらずんば)、焉んぞ(いずくんぞ)知なるを得ん。

先生がおっしゃった。
「人の心を大切にする態度が美しいのだ。自分から選んで仁を心がけなければ、どうして知恵のある立派な人ということができるだろうか。」
(訳:安岡定子)

2,500年前も今も、その時代なりに思いやりの気持ちが失われているということでしょう。
ですから、単純に「昔は良かった」とは言えません。

今後、ますます発展するであろうネット社会。
技術に頼るだけでなく、豊かな心も育んでゆきたいものです。