落とし噺の話【捨てる文化】
茶道、華道、書道、香道。
私にはいずれも心得がありません。しかし、これらに関する話を聞くにつけ、日本の文化、特に「道」のついたものは「捨てる文化」ではないかと思っています。
余計なものを捨てて極限まで簡素にする。
そこに美を求める。
そのようなものではないかと感じています。
武道にも同様のことが言えるのではないか。
空手道、柔道、剣道、等々。
私に心得があるのは空手道。
これも無駄な動き、余計な動きを排除し、最も「簡素」な動きで相手を倒す。
突く、蹴る。
これらの動作を如何に無駄なく、最も少ない動きで行うか。これが求められます。
そして、そこに形の美しさが表れる。
両手を振り回して戦う人は決して美しくないし、強くもない。
強い人の動きは無駄がない。無駄のない動きで一撃を以て相手を倒す。
しかし、口で言うほど簡単ではありません。
私にこれができたのは10年間のうちに一度だけ。
ある試合で、気が付いたら相手が倒れていた。
自分がどんな動きをしたのか全く覚えていない。
覚えているのはそれが最も基本的な技だったことだけです。
恐らくその時は無駄のない動きができたのではないかと思います。
この極限まで無駄を省くということは落語にも通じるところがあるのではないかと思います。
「道」と落語?
関係がないように思われるかもしれませんが、私の中では両者に共通したものを感じています。
落語はただ可笑しなことを話しているだけのものではない。
数十年、数百年にわたって語り継がれてきた古典落語。
この過程で極限まで無駄な言葉を削ぎ取って出来上がっているものだと思っています。
ある噺家さんがまくらの中で「ガラスの金魚鉢」という言葉を使いました。
そして、「ん?『ガラスの金魚鉢』は言葉が重複していますかね。でも、最近はプラスチックの金魚鉢もあるからいいのかな。」と考えていました。
高座でこのようなことを言うことの是非はともかく、このように言葉の重複を避け、最も適切な言い回し、言葉を探す。
私はこのような意識が感じられる噺家さんの噺が好きです。
そういう方の噺はどんなに長くても疲れないし、飽きない。
捨てることによってもたらされる「美」。
日常生活でも心掛けたいことの一つです。