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日々雑感【ボランティアということ】

コロナの影響で中断していますが、私は近所の障害者施設でボランティア活動をしています。

始めたのは2000年の秋なので、もうずいぶん長くなりました。

その年に介護保険制度の運用が始まりました。
「ようやく日本も福祉国家になる」と思い、「自分も何かしなくては」との思いから、このボランティア活動をすることにました。
この施設があることは以前から知っていたのと、私は集団での活動が好きではないことから、地域のボランティアグループではなく、迷わずこの施設を訪ねて行きました。
その施設がボランティアを募集していたわけではないのですが、勝手に「ここでやる!」と決めました。

以来、いろいろなことをさせてもらっています。

近くの公園や遊歩道への散歩の付き添い。
部屋の掃除。
外食への付き添い。
食事や入浴の介助。
投薬。
日帰りや宿泊を伴うバス旅行への引率。
デイ活動でのお手伝い。
年に一度の園蔡でのお手伝い。

この間に世の中の「支援」に対する考え方がずいぶん変わりました。

例えば、利用者さんの名前の呼び方。

あ、福祉の世界ではその施設の入所者やデイ活動への参加者などを、それらの支援や援助を「利用」しているという意味で「利用者」と呼びます。

話を戻して、名前の呼び方。
私がこの活動を始めたころは、親しみを込める意味もあって、利用者の下の名前を「ちゃん」付けで呼んだり、呼び捨てにすることもありました。
しかし、今は原則として苗字を「さん」付けで呼ぶことになっています。
これが明文化された規則で決まっているのかどうかは知りません。

また、暴力や虐待とまではいきませんが、手荒い支援もありました。
もちろん、今はどんなに些細でも利用者に手をあげることはすべて禁じられています。

私がやらせてもらった食事や入浴の介助は、おそらく今はできないでしょう。
投薬は絶対にダメです。

そういうなかで、支援のあり方について職員の方々から教えていただいたことが数多くあります。
例えば、どういう支援をしたら良いのか、してはならないのか。
ある職員さんは「利用者さんの親の前でその支援ができるかどうかを判断基準にしている」とおっしゃっていました。
確かに、親御さんの前では名前を呼び捨てにしたり、頭をポカリとやったりはできないでしょう。

さて、前置きはこのくらいにして。
ボランティア活動をしていて、思っていることが二つあります。
一つは、何故ボランティア活動をしているか。
もう一つは、ボランティアの責任について。

まず、一つ目の点から。
ある人が、私がボランティア活動をしていることを知り、こんなことを言いました。

「何故ボランティアをしているんですか?自己満足?」

カチンときましたが、第三者のなかにはそう思う人がいるのかもしれないな、とも思いました。

このボランティアを始めたきっかけは、先に書いた通り、介護保険の運用開始と、それにともなう「自分も何かしなくては」という思いでした。
義務感とまではいきませんが、「しなくては」という思いでした。

しかし、これまで長いこと続けてきたのはその思いだけではないと思います。
それが何かは、実際のところ、自分でもよく分かっていませんし、また、分かる必要はないとも思っています。
もしかしたら、「自己満足」もあるのかもしれません。

ただ、敢えて挙げるならば、利用者さんたちの楽しそうな姿と職員さんたちからの「ありがとうございます」かもしれません。
この施設の特性から、利用者さんたちご本人からお礼を言われることはありません。
しかし、私が支援することによって利用者さんが何かをすることができる。
そして、その利用者さんが嬉しそうに、楽しそうにする姿を見ることが嬉しいから、かもしれません。

一人では食事ができない方に少し手助けをして差し上げることで、美味しいものを自分で食べることができます。
美味しいものを口にしたときの笑顔は万人共通です。

一人では入浴できない方も私の支援によって、温かいお湯に浸かることができます。
お湯に浸かると、普段は見られない穏やかな表情になります。

外を歩くと周囲を見回して楽しそうな表情を見せてくれます。
風に揺れる木の葉を不思議そうにいつまでも眺めている姿があります。

そういう姿を見ることが嬉しい。
そして、そのことに対する職員さんからの「ありがとう」。
それが理由といえば理由かもしれません。

ただ、自分のなかでは、特別な理由もなく「ただやる」。
それでいいと思っています。

私がボランティアについて思っていることの二つ目。
ボランティアの責任ということについて。

ここで言う「責任」は、その行為とそれに起因する結果に対する責任ということではありません。

ボランティアについて、よく耳にする言葉があります。

「行けるときに行けばいい」

施設などボランティアを受ける側からもこういう表現が聞かれることがあります。
「来られるときに来ていただければいいですよ」と。

では、この「行けるとき」「来られるとき」とはどういう「とき」でしょう。
朝、起きて、行きたい気分だったら行く。
行きたくなかったら行かないでいい。
それが「行けるときに行く」ということなのでしょうか?

こういう考えの人は多いと思いますし、実際にこれで済んでいる場面も多いと思いますが、私はそれは誤りだと思います。
言い方を変えれば、そういう考えはしないで欲しいです。

そのときになるまで来るか来ないか分からない。
その連絡すらしてこない「ボランティア」もいるでしょう。
しかし、それでボランティアに仕事を任せられるでしょうか。

災害被災地に多くのボランティアが行っています。
その人たちがいつ何人来るかそのときにならないと分からなかったら、どうでしょう。
災害ボランティアは事前登録制なので特別なのでしょうか?
いいえ、私は災害だろうが、地域の小規模なボランティアだろうが考え方は同じだと思います。

「行けるとき」とは、自分が時間を提供できる「とき」ですが、約束した「とき」は守らなくてはならないと思います。

例えば、「土曜日の午前中にボランティアに参加できます」という人がいるとします。

この人にとっての「行けるとき」は「土曜日の午前中」であり、提供するとしたその約束はボランティアといえども守るべきだと思います。
もちろん、行けないときもあるでしょう。
そのときには事前に連絡をする。
それも一つの責任です。

ボランティアには「責任」がない。
それがボランティアなのだ。
だからボランティアなのだ。

果たしてそうなのでしょうか?
そうではないと私は思います。

ボランティアはあくまでも自主的、自発的なものです。
しかし、だから無責任でいいということにはなりません。

むしろ、自主的、自発的だからこそ、提供すると約束したものに責任を持つべきではないでしょうか。

それがボランティアだと思います。