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日々雑感【直きを挙げて】

いっとき「論語」に興味を持ったことがあります。
(今も興味がないわけではありませんが)

今から2,500年前に生きた中国の思想家、孔子。
その孔子の言葉をまとめたものが「論語」です。
(本人が書いたわけではありません)

「子曰く」(し のたまわく)で始まる章句を聞いたことのある方もいらっしゃるのではないでしょうか。
この「子」は孔子のことです。

「温故知新」(ふるきを たずねて あたらしきを しる)
これも論語におさめられている章句の一つです。

約500ある章句の中で私が最も好きなのが、次のものです。

「直きを挙げて諸を枉れるに錯く。能く枉れる者をして直からしむ」
(なおきをあげて これをまがれるにおく。よくまがれるものをして なおからしむ)

「真っ直ぐなものを曲がったものの上に置くと、曲がったものが真っ直ぐになる」という意味です。
人に置き換えれば、
「正しい者を正しくない者の上に置けば、下にいる正しくない者もこれに影響されて正しくなる。」
ということになります。

私はこの言葉をさまざまな場面で思い出します。
文字通り「間違ったことをしている人がいても、正しいことをしている中にいれば、必ず正しい方向に導かれる」と信じて、じっと見守ることが必要なこともあります。

ときには自分なりの拡大解釈をすることもあります。

よく耳にする言葉。
「あの人だってやってるから」「あの人だってやらないから」
それを理由に、間違ったことを真似たり、正しいことをやらなかったりすることがあります。
そんなときにこの章句を思い出します。
「枉れる」に合わせるのではなく、「直き」をおこなわなくてはならない、と。
何も悪いほうに合わせることはありません。
「周囲が間違っていると思えたら、それに合わせるのではなく、自分は正しいと思うことをしよう」と。

また、「直き」「枉れる」は必ずしも「善悪」ということとは限らないと思います。
例えば、「前例がないから」「やったことがないから」、「できない」「やらない」ということがあります。
昔ながらの「お役所仕事」や現状を変えたがらない保守的な人たちが口にする言葉です。

私の中ではこの「できない」「やらない」は「枉れる」です。
「前例がないから」こそ、「やったことがないから」こそ、「やる」のが「直き」おこないだと思います。

さらに解釈を広げて、「直き」も「枉れる」も自分の中にいる「二人」と考えることがあります。
とかく「悪いこと」「否定的なこと」のほうが楽なことがあります。
できない言い訳を考えて「やらない」というように。
頑張って何かをやるよりも、やらないほうが楽ですからね。
そういうときに、何が「直き」で何が「枉れる」かを振り返り、自分がすべきことは何かを考えることが必要だと思います。

自分の中の「直き」で自分の中の「枉れる」を「直からしむ」。

現実に戻ると、今、私は「枉れる」おこないをしたり、しようとしたりしています。
なんとかしなくてはならない。
それを止めなくてはならない。
そんなときにこの章句を思い出したのです。

なんとかして自分自身を「直からし」めなくては。

それにしても、2,500年前の教えが今にも通じるというのは、孔子という人の素晴らしさということなのか、それとも、人間社会は今も昔も変わらないということなのか。

両方でしょうね。