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落とし噺の話【落語との出会い、そして、志ん生】

「え~、毎度バカバカしいお話を...」という決まり文句を耳にすることはほとんどなくなりましたが、その「バカバカしいお話」のことを「落とし噺の話」としてこの場に何度か書いてきました。

少し間が空いてしまったので、また改めて書こうと思います。

私が本格的に落語と出会ったのは高校生のとき。
当時の国語の先生の勧めがきっかけでした。
「落語を聴け!落語はいいぞ。でも新作はダメだ。『おーい、田中く〜ん』なんてやってるのは落語じゃない。」と。
この「新作はダメだ」については、思うところがあるので、それはまた別の機会に書くことにします。

また、「本格的に」と書いたのは、子供のころからテレビで流れていた寄席番組を子供なりに楽しんでいた時期があるからです。
そのころは落語も漫談も漫才も区別がつかない。
ただおかしいから笑っていただけでした。

落語を聴いてみようと思ったとき、今なら寄席に行くこともできるし、動画配信サイトやケーブルテレビで手軽に聴くことができます。
しかし、私が高校生のころはそうはゆきません。
母に「落語を観に行きたい」と言うと、「ダメ!落語なんていやらしいことばかりなんだから」と一喝されました。
母には廓噺が頭にあったのでしょうね。
確かに、当時の高校生といえば、「明烏」の坊ちゃんのようなもので、廓の話など聴いてもちんぷんかんぷんでしたでしょうし、その意味を聞かれても母は困ったことでしょう。

仕方なく、寄席に行くのは諦め、ラジオで聴くことにしました。
そのときに聴いたのが志ん生の「強情灸」。
「なんて面白いんだろう」と、いっぺんに落語好きになったのでした。
ですから志ん生、そして「強情灸」は私にとって思い出深い最初の噺家であり噺なのです。
初めて聴いた落語が志ん生というのは贅沢な話ですね。
ラジオでしか聴けなかったことが、むしろ恵まれた環境だったのかもしれません。

志ん生という人がどんな姿をした人かはまだ知る由もありませんでしたが、音声だけでも、銭湯の湯やお灸の熱さにやせ我慢をして耐えている様子が目に浮かぶようでした。

これが私の落語との出会い。
今から約50年前のことです。

そして、その志ん生のこと。
もちろん、私は志ん生を寄席で観たことはありません。
数少ない映像を見たことがあるだけです。
それでも数々の音源をいく度となく聴き、また、本などでいろいろな逸話を読み、まるで観たことがあるような気がしています。

貧乏でも酒をやめず、借金取りから逃れるために何度も名前を変えたという話。
酒が飲めるから、と戦時中に満州へ行ったという話。
高座で居眠りをしてしまった話。
等など、等など。

志ん生が亡くなったのは私が17歳のとき。
ちょうど、私が落語に興味を持った時期です。
あと少し早く落語に目覚めていれば、と悔やまれるところですが、最後の高座は昭和43年といいますから、私は12歳。

「志ん生の高座を観たかった。」
叶わぬ願望です。
しかし、そんな私にとって、とても嬉しかったことがあります。
あるとき、お付き合いをしていた落語好きの年配の方に何気なく「志ん生を観たことがありますか?」と尋ねると「うん、何度も観たよ。鈴本でね。面白かったよ~」と。
それだけで、嬉しくなってしまいました。
志ん生を観たことがある人に出会っただけで嬉しくてたまらない。
私にとって、志ん生とはそんな噺家です。