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【日本語、雑感(その弐)】

「重い」と「重たい」、「感激する」と「感動する」。

これらをどのように使い分けているか。
そんなことはどちらでもいいし、それを気にしている人は少ないかもしれません。
でも、私はこんなことを考えるのが好きです。
ただ、もしかしたら学術的な違いがあるのかもしれませんが、そこまで調べてみようとは思っていません。

まず、「重い」と「重たい」から。
飽くまでも私の使い分けですが、「重い」は重さがあったり、重さを感じられたりするものだけに使っている。
一方、「重たい」は重さがあるものと重さがないか感じられないものの両方に使っている。
ですから、私は「命は何よりも重たい」「地球は重たい」とは言わない。
それぞれ「命は何よりも重い」「地球は重い」と言う。
そして、重いものを持ったときには「重い」とも「重たい」とも言う。

では、「感激」と「感動」はどうでしょう。
「感激」はある行為が自分に向けられた場合、「感動」はその行為が自分に向けられたものではない場合に使っています。
例えば、映画を見て「感動」はしますが「感激」はしない。
映画は自分に向けて作られたものではないから。
一方、恋人に贈り物をもらえば「感動」ではなく「感激」する。
贈り物は自分に向けられたものだから。
だいぶ前のことですが、相撲で満身創痍の横綱がやっとの思いで優勝したのを見たそのときの総理大臣は「感動した!」とその横綱を褒め称えました。
もし、その横綱が「総理のために頑張りました」と言えば、その総理は「感激」したのかもしれません。

他にも「する」と「やる」の区別など、似たような言葉の使い分けを自分なりに分析してみるのも、言葉好きなら楽しいものです。
ただ、このような区別もいずれは、或いは既になくなっているのかもしれません。