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交差点(短編小説)

ベージュのマフラーを巻きなおしながら、幸子は待ち合わせ場所を変えればよかったと首をすくめた。風が思ったより冷たい。待ち合わせの時間までまだ少しある。さっき駅のトイレで確認したところだったが、もう一度、カバンから手鏡を取り出し、口元をチェックする。
40をすぎた女には明るすぎる口紅だった。男に殴られて切れた口の端を隠すにはこれくらいでないといけない。離婚する前から関係のあった男は、近ごろになって暴力を振るうようになった。
もうすぐ中学三年生になる娘と会うのは一年ぶりだ。離婚のとき、親権を手放したのには理由があった。1つは一緒になるつもりの男がいたこと。もう1つは娘が夫といることを選んだからだった。
義母は激怒し、自分の息子のことを棚に上げ、どう言いくるめたのか娘はこっちで面倒をみる、本人もそれで納得していると電話をかけてきたのだった。
改札口の方から人が流れ出てくる。白いコートを着た少女がこちらに向かってくるのが見えた。彼女は幸子を見つけ、小さく手を上げる。
「ママ?」
早足で駆け寄ってきた少女は、1年前より少しだけ大人びて見えた。
「久しぶり」
幸子は微笑み、右手を小さく挙げた。口の端がかすかに痛んだ。

テーブルに向かい合って座ると、目の高さが同じだと気づいた。
「背が伸びたわね」
「そうかも」
肩の下まである髪を払いながら娘はぎこちなく笑う。幸子は、
「パパは元気?」
と訊いてから、この一年、元夫のことを考えたことはなかったと気付いた。
娘は視線をそらし、ジュースのストローをつまんでかき回す。
「うん」
幸子はコーヒーの入ったカップを両手で包み込むように持った。
「そう」
彼は大手企業の役員だった。夫はタバコを灰皿に押しつけながら、「別に会いたいときは会えばいい。もう小さい子供じゃないんだから」と少し声を和らげた。幸子は何も言えなかった。経済的なことを考えると夫といるほうが娘にとってはいいに決まっているし、自分も他の男と関係を持っていたというのもある。家を出て以来、娘と会っていなかったのは後ろめたさが多少なりともあったからだ。
娘はため息と一緒に吐きだした。
「やっぱりママのほうがいい」
幸子は娘を見据える。娘は顔をしかめた。
「あの人、なんか嫌な感じなんだもん」
彼女は続ける。相手の女は掃除では埃ひとつ残さないし、洗濯物は下着までアイロンを当てる。それに料理はプロ並みの腕前だそうだ。
「料理教室みたいなの始めちゃって。知らない人が家にいっぱい来るの。落ちつかないし、化粧くさいし」
幸子は黙っていた。娘はストローをかき回すのをやめ、ぽつりと漏らした。
「あの人に赤ちゃんができたみたいなんだよね」
幸子はカップから手を離し、ゆっくりまばたきした。
「よかったじゃない」
「よくないよ」
小さなため息が漏れたのが聞こえた。娘はまっすぐに幸子を見据えて口を開いた。
「ママと一緒に暮らしたい」
幸子はゆっくり息を吸い込み、娘を見つめる。この1年、何よりも聞きたいと願っていた言葉だった。けれどこの言葉を望む権利はないのだと自分に言い聞かせてきたのだ。けれど、もしもそう言われたら。ここへ来る前から何度も考えていた。もしもその言葉が聞けたなら。
幸子はできるだけ穏やかに、しかしはっきりと言った。
「ありがとう。でも、それは無理よ」
娘の瞳が揺れた。
「どうして」
「ママも妊娠してるの」
驚くほどすんなりと嘘が出た。娘が息を飲んだのがわかる。幸子はゆっくりとお腹に手を当てる。
「だからね、あなたと一緒に暮らす余裕はないの」
下を向いてしまった娘を幸子は目に焼き付けるように眺めた。この角度から見ると自分に似ているような気がした。
「お互いにもう会わないほうがいいかもしれないわね」
娘はさらにうつむき、両手を膝の上で握りしめた。幸子はかばんから1万円札を取り出し、テーブルに置いて立ち上がった。
「元気でね」
背中を向け、足早に店を出る。駅前の交差点で立ち止まった。自分の生活を思い、娘の生活を思う。例え男と別れて自分が一人になっても、おそらくこの先、娘と交わることはないのだろう。氷のような風が首元を探り、幸子はマフラーを忘れてきたことに気がついた。信号が青に変わり人々が流れ出す。その波に押されるように幸子はゆっくりと歩き出した。

〈月刊ふみふみ〉掲載のものを加筆修正

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