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「世界郵便の日」なので38年来のペンフレンドの話

エアメールにときめいた頃(まえがき)

今日10月9日は、この日に万国郵便連合が発足したことを記念して、「世界郵便の日」(またの名を「世界郵便デー」)らしい。

メールやSNSで国境も時差も越えて世界と通信できるようになった今、「海外文通」は黒電話並みに過去の遺産になりつつあるのかもしれない。「BY AIRMAIL」と朱書きされた封筒をポストに見つけたときの、ときめき。便箋とともに納められた異国のにおい。文字にしても口にしても心が浮き立つ「ペンフレンド(またの名を「ペンパル」)」の響き。日本とは違う時間を生きている友がいる楽しさ。ペンフレンドを斡旋する有料サービスもあった。もはや化石か。

2020年から遡ること38年前の1982年。中学1年生の夏休みに旧東ドイツのエルベ川の遊覧船の上で出会った同い年のAnnettと今もやりとりを続けている。切手を貼った郵便はうんと減り、facebookやインスタのメッセージにとって代わられるようになったが。

東ドイツ研究会(正式な名前は忘れた)なるもののメンバー有志の視察旅行だった。母は、わたしと小学5年生だった妹を連れて行った。初めての海外旅行で、いきなり社会主義国。日本からの観光客はほとんど受け入れておらず、かなりの高額ツアーだった。母は親戚から借金して回った。ほんま何考えてるんや! 感謝してます!

旅行から帰ると、NHKのラジオ第2でドイツ語講座を聞き始め、ドイツ語での文通が始まった。日本からの封書は、赤青白のトリコロールカラーに縁取りされた透け透けペラペラ軽量封筒で、便箋も透け透けペラペラで、ボールペンを引っかけては穴を空けながら、覚えたてのフレーズを書き綴った。機械翻訳などなかった時代だから、ドイツ語を読むのも書くのも辞書を引いた。

クリスマスにはダンボールいっぱいのプレゼントを贈りあった。日本の文房具(特にレターセット)とコーヒーとチョコレートが喜ばれた。ドイツからは香りのするものがたくさん送られて来た。石鹸、シャンプー、キャンドル、香水などなど。

Annettとの出会いがなかったら、外国語を学ぶ楽しさに目覚めることも、高校生になって海外留学を思い立つこともなかったかもしれない。各都道県から一人ずつという奨学留学生プログラムの大阪府代表になれたのは、「ドイツに住むペンフレンドとの交流を通して、海外に目を向けるようになりました」と面接でAnnettの話をしたことも大きかったはずだ。

デパートの催事場でのドイツ展。アンネの日記。ミヒャエル・エンデ。ドイツにまつわるものにアンテナを向けるようになった。東西ドイツの動きにも「友だちの身に関わること」として関心を寄せていた。1989年11月9日(国際郵便の日の1か月後。覚えやすい)にベルリンの壁が崩壊したときも、遠い国のニュースは、身近な話題だった。

ベルリンの壁崩壊の4年後の1993年、大学4年だったわたしは、第2回学生「大陸・夢の旅」作文コンクール(たしか毎日新聞社主催)にAnnett のことを綴り、応募した。賞金で卒業旅行の旅費を稼ごうという魂胆だった。

「再会旅行」(掘り出し原稿)

ヨーロッパ~日本往復航空券2枚、それは、再会旅行の切符。1枚はクリスマスカードに添えてGermany のAnnettへ。

「メリークリスマス!ところで、今年が文通10周年だったって気づいてた?82年の秋からだもの。毎月1往復としても250通近くになるのよ。信じられる?でも、私達は、あの夏エルベ川で会ったきり。百聞は一見にしかず、この機会に10年分会ってみない?というわけで、航空券を同封します。サンタクロースからのプレゼントだから、気を遣わないでね。こちらでの食事とベッドはご心配なく。お仕事と家事の都合を付けて、是非来て!」

もう1枚は私に。なぜならAnnettは、きっとこう書いてくるからだ。

「日本への招待、とっても嬉しいわ。日本で会えるなんて!本当のこと言うと、私だって同じことを考えていたのよ。私の家族があなたに会いたがってるのは知っているでしょう?今のアパートなら泊まってもらえるし、お料理でもてなすことも出来るのよ。でも、電話も持ってない私に航空券は無理だってあきらめちゃった。あー、サンタクロースにもう1枚おねだりしたい気分」

そこで、私は急いでペンを走らせる。

「グッドニュース!あわてんぼうのサンタクロースが1枚落として行ったから、旅行に続きが出来るわ。ドイツに帰る時は、私も一緒よ。ご主人やかわいいお子さん達に会えるのね。あなたの行ってた学校やお気に入りの場所にも連れて行ってね。懐かしのエルベ川にも行ってみない?話したいことがいっぱい!ドイツ語勉強しなきゃ!」

航空券を手にしたら、再会旅行の前奏曲が始まる。

♪どきどき・わくわく・そわそわ♪

「先入観のないうちに違った価値観に触れさせておきたい」という母に連れられ、当時ドイツ社会主義連邦共和国だった東ドイツへのツアーに参加したのは、中学1年生の時。町なかを走る戦車も、素敵な老人ホームも、バターとパセリたっぷりのポテトも、5時以降は売ってくれない店も、素直な子供の目で受け入れ、私の東ドイツ像を描いていった。その親近感もAnnettとの交流がなかったら、とうに色あせてただろう。

エルベ川の遊覧船の上で、二人は出会った。ピオニールという課外活動グループの遠足で乗り合わせていたAnnettは、日本人である私達一行に興味津々だった。質問攻めにあった大人達は逃げて行き、残された私に彼女は「なぜ?」を続けた。直感だったかもしれないが、彼女とは友達になれそうな気がしていた。Annettには驚くほど言葉が通じたのである。私達が話していたのは、日本語でもドイツ語でもなく、ハートトークのようなものだった。学校、好きな食べ物、休日の過ごし方、等々話題は尽きず、2時間の遊覧はあっという間だった。

そのときの文通の約束が実現しただけでもすごいと思う。お互いの英語が上達するまではドイツ語だった。NHK講座のテキスト片手に書き、辞書を引きながら読む。手紙と合わせてシールやカードも送った。

最初の年のクリスマスには大量の贈り物が届き、キリスト教の国の祝い方を教えられた。クリスマスと誕生日のプレゼント交換は今では恒例となっている。情報交換も活発で、「どんな音楽が流行っている?」「部屋には何があるの?」といった質問を送りあった。「テープレコーダーを持ってる?」と聞かれて生活水準の違いを実感したこともある。

教科書には5行ほどしか載っていない国をクラスの誰よりも知っている、というのはささやかな自慢だった。日本の外に友達が一人いるだけで、その国は近い存在になり、世界の動きにもアンテナを向けるようになる。Annettの手紙はいつも私の好奇心をくすぐった。

1990年秋、ドイツで歴史的変革が起こった(※実際は1989年)。「早速、西のマクドナルドに行ってきたわ!」彼女の報告はそれだけだった。東ドイツにはマクドナルドがないというので説明してあげたら、その直後にベルリンの壁が崩壊したのである。今でもハンバーガーを見ると、ドイツ統一の興奮を思い出す。その後、マスコミは旧東ドイツ労働者の失業問題を報じていたが、Annettからは生の声が送られてきた。夫が失業し、彼女自身も仕事が週5日、さらに3日に減り、いつゼロになるか分からない……「統一が良かったのかどうか、今はまだ言えないけど、これ以上悪くなることはないと思うわ。生みの苦しみが終われば何とかなるはず」

生活が大変そうなので、「今年のクリスマスはカードだけにして」と言ったが、例年通り送られてきた。「私に出来ることがあったら何でも言って」とも言ったが、「手紙だけで十分」という返事。Annettはいつも慎み深い。初めて会った時も、私の持ち物を欲しがるピオニールの仲間をたしなめ、お菓子を分けられるとお礼を繰り返していた。

だから、口には出さないけれど、私の生活を羨ましがっているのが分かる。欲しい物はほとんど手に入り、コードレス電話やホームビデオが一般家庭に普及している日本の生活を。物の豊さという面では恵まれていなかった彼女にとって、日本は夢の国なのだ。

再会の夢は、手紙が増える毎に膨らんでいく。時間と距離を越えてお互いの人生に影響を与えあった大切な人との再会。それは深い水底の貝の中で育った真珠を確かめるような心躍る瞬間。問題は時間とお金だ。私は卒業旅行を兼ねた再会旅行を計画し、ドイツ行きの資金を作り始めた。

しかし、その計画は不完全である。一方通行だからだ。再会旅行の目的は、互いの成長を確かめ合い、積もる話に花を咲かせ、友情を深めることだけではない。手紙に出てきた人に会い、景色を見、物に触れ、抱いてきたイメージと比べたり重ねたりするのも、10年間の軌跡の確認なのである。書かれていた物を目の辺りにするだけで、感慨無量であろう。ふと目にした物で手紙の一文を思い出したり、意味が分かってハッとしたりするかもしれない。そうすると、どちらか一方の国で再会するだけでは中途半端なのである。

やはり切符は2枚必要だ。再会旅行は2部仕立て─第1部は日本、第2部は新しくなったドイツを舞台に。

10年間のお復習いの前に、その予習をしておこう。段ボールいっぱいの手紙を読み返して、気になるモノのチェックリストを作っておく。固有名詞は出来るだけ覚えておいて、「あれは……」と言われる前に「○○でしょ」なんて言って驚かせたい。Annettも同じことを考えているかもしれない。

思い出を温めるだけではなく、新しい思い出も付け足そう。次の再会旅行までの貯蓄が出来るくらい楽しみたい。例のマクドナルドに行く、おそろいの服を買う、カラオケに行く等々、内容はもちろん手紙で相談する。ドイツの高級レストランで当然のようにお箸で食べたり、ディスコで盆踊りを踊って見せたり……二人でしか出来ないバカなこと、奇想天外なこともやってみたい。

旅の原点は自分を見つめ直し、明日への活力を得ることだと言う。「自分達=二人の自分」が主人公、しかも10年分のエネルギーをぶつけるとなると、今まで書いた手紙ぐらいの旅行記が書けそうである。一瞬一瞬が二人の共通財産を磨き直し、さらに付加価値となる旅。

サンタクロースのプレゼントが届いたら、荷造りを始めよう。

再会旅行は片道切符で(あとがき)

作文に書いた通り、Annettと卒業旅行で再会を果たした。大賞だったら二人分の航空券が買えたのだけれど、佳作だったのでわたしの分だけになった。

作文を書いた当時は旧東ドイツをとんでもなく貧しい国だと思い込み、まるでAnnettに亡命願望があるかのような書き方をしてしまったが、彼女の家にはコードレス電話もビデオつきテレビもあり、豊かで幸せそのものだった。

その後、わたしは広告代理店に就職し、仕事でカンヌ国際広告祭へ行った折にもドイツに立ち寄った。アウシュビッツ訪問が目的のポーランド旅行の折にも。

彼女の一家を日本に招待する夢はまだ果たせていない。再会旅行はいまだに片道のまま。新型コロナウイルスに揺さぶられている2020年、日本とドイツを行き来するハードルは上がってしまったが、互いを案じ合う時間は増えた。友情は38年前からずっと双方向だ。

その国に一人でも親しい人がいれば、その国に無関心ではいられなくなる。「国と国」の関係は「人と人」の延長にあるのだとAnnettとの文通は教えてくれた。

世界文通の日に乾杯!(PostとProstは似ている!!)

目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。