2023年9月2日、母校の同窓会が主催する講演会「三丘(さんきゅう)アカシアトークカフェ」に呼んでいただいた。
大阪府立三国丘高校の三と丘をつなげて三丘。三丘同窓会に三丘体育会。会場の三丘会館は校内に建つ別棟の同窓会館。さんきゅう、サンキュー、Thank you。
両面カラー印刷(裏面にはプロフィール)のチラシも作っていただいた。
「高40回入学、41回卒業」となっているのは2年生の途中で留学し、ひとつ下の学年で2年生の続きをやったから。12クラス(40回生)+14クラス(41回生)で同級生が26クラス分いる。
アンダーライン引きまくる同窓会長
「しゃべるん苦手やから、これ読み上げるか配るかしてもええかな?」
講演前の打ち合わせ。開会の挨拶をすることになっている同窓会長の仲林信至先輩が差し出したのは、三丘体育会創立30年の記念誌「三丘スポーツ史III」にわたしが寄稿した掲載ページのコピー。
「うわ、懐かし!」となった。刊行は2007年、16年前。わたしの顔写真はかなり若い。
仲林会長が赤ペンで引いたアンダーラインで原稿は真っ赤っ赤。全面的に気に入ってくださっている。赤線を引いたものではなく元の掲載ページをコピーして配りましょうとなり、見開きページのコピーとともに若き日のわたしがばらまかれた。
現在のわたしと顔がつながらないが、チラシの裏面に入れたプロフィール写真も盛り盛り詐欺(佐々木蔵之介さんと対談したときにヘアメイクさんとカメラマンさんが当社比250%ほどに上げてくださったものに、さらにレタッチが入り、限界まで盛っている)なので、いずれにしてもつながらない。
文化祭好きの進路
再会した寄稿文のタイトルは「寄り道ブドウ」。文武両道と胸を張れる立派なものではなく寄り道程度の体育会。部室でよく寄り道(サボリ)もしたが、本業の学業以外の部分が高校生活をより豊かにしてくれ、おいしく結実したという話を架空のインタビュー形式で綴っている。
長らく存在すら忘れていた原稿だが、久しぶりに読んでみて、「今日の講演にも通じる!」と思った。
講演は「大人の文化祭!! みんなで脚本作り」と題して、前半は「脚本家は『つなげる』のが仕事」の具体例を紹介しながら「脚本家になるまでの寄り道もその後につながっている」と話し、後半の脚本作りワークショップにつなげることになっていた。
わたしの中では文化祭のウェイトが高校生活の3分の1ぐらいを占めている。特に劇をやった年。高校2年のときに「鹿鳴館」を、高3のときに「オズの魔法使い」をやった。
「鹿鳴館」は三島由紀夫原作。当時映画が公開されていて、近所の泉陽高校出身で東宝シンデレラに選ばれた沢口靖子さんがヒロインということで堺では特に注目作だった。わたしは浅丘ルリ子さんが演じた朝子の役をやった。衣装班が作ったドレスが素晴らしかった。
「オズの魔法使い」では脚本(ブロードウェイミュージカル『ウィズ』を見に行ったときに入手していた脚本を脚色)と演出とカリダーの一員をやり、体操部だったので、カリダーのバック転指導もやった。
【2023.9.4追記】このnoteを読んだカリダー仲間が「側転の稽古をつけてもらった」と教えてくれた。「絶対できる!」と当時のわたししが励ましていたらしい。
2度目のオズ
大学4年の教育実習で受け持ったクラスは奇しくも文化祭で「オズの魔法使い」をやろうとしていたが、まだエンジンがかかっておらず、「どうするん?」という空気が流れていた。
ここはわたしがやらなあかん、と頼まれてもいないのに翌日からジャージ登校して、朝練昼練放課後練に参加。大学では応援団のチアリーダー部にいたので、ダンスの振り付けを買って出て、手を繋いで股の下を潜るようなアクロバティックな動きも取り入れた。
大道具の子たちが背景の草むらを糸で引いて動かすアイデアを思いつき、ダンスしながら進むのと反対方向に草むらを動かしてもらい、スペースマウンテン効果で倍速に見せた。
演者と裏方の歯車が合わさって回り始め、迎えた本番。ビデオ係を任されたわたしは朝練昼練放課後練の成果以上の出来栄えに感激し、カーテンコールのときは感極まって涙とともに膝から崩れ落ちた。この教育実習生大丈夫か、と思われていたかもしれない。
高3のオズのカーテンコールの写真でも、顔を茶色く塗った猿姿のわたしがうずくまっている。前日のリハがボロボロで、他のクラスから「大丈夫?」と心配され、そこからの猛練習で本番は見違え、今までで一番の出来だった。わたしにとって、文化祭のオズは2 度とも「どうするん?」からの奇跡の復活劇なのだった。
【2023.9.5追記】脚本映画デビュー作『パコダテ人』東京最終日に駆けつけた日の日記に2度のオズを「人生でいちばん感動した出来事」として綴っているのを掘り出した。1度目と2度目、4年しか空いてなかったのか。そりゃそうか。高校3年と大学4年。10代の終わりと20代の始めにむちゃくちゃ影響を受けている。
教師に向いていない
教育実習のときのオズの終演後、抱え切れないくらい大きな花束をもらい、打ち上げにも呼んでもらった。「教師最高!」と思ったが、広告代理店に就職が決まり、コピーライターになりますと担当教官だった英語の先生に報告に行った。
「あなたは教師にならないほうが良いです。あなたが誰よりも楽しんでましたからね」
先生はホッとした表情で言った。嫌味ではなく、教師よりそちらが向いてますよと肯定する口ぶりだったが、教師に向いているのではと自惚れかけていたわたしは、「へ?」となった。
思い返せば、教育実習生ではなく、文化祭実習生になっていた。生徒よりも文化祭に夢中になり、授業の準備はそっちのけになっていた。初見で教科書を訳していったので、black warship(黒船)をblack worship(黒人崇拝)と訳してしまい、それに合わせてストーリーをねじ曲げるという乱暴さだった。
文化祭前の2週間が教育実習期間となっているのは、生徒たちが浮ついていて授業どころではないからと聞いていたが、教育実習生自ら授業どころではなくなっていた。
こんな人に教師になられたら、ほんと迷惑だと我ながら思う。
生徒からのアンケートでは「発音はいいけどよくわからない」など手厳しい意見もあり、授業の評判はあまり良くなかった。一人だけ「物語を聴いているようでした」と書いてくれた男子生徒がいた。刺さる人には刺さる、ストライクゾーンがかなり狭い授業をしていた。
教育実習でわたしが味わったのは、文化祭前という高校生活で一番楽しい時期の、文化祭準備という一番おいしいところだった。教師の醍醐味の上澄みだけを舐めて、「教師最高!」と舞い上がっていたのだった。
留学中にヨセミテ公園へ1週間の研修旅行に行ったとき(自然観察したり地球の未来について考えたりした)のことを思い出す。「あまりに楽しくて、ずっと居たかった」と帰ってからホストファーザーに報告すると、「ずっと続かないから楽しいんだよ」と言われた。ホストファーザーはわたしが通ったSimi Valley高校で英語の先生をしていて、とても思慮深い人だった。
学校は毎日文化祭をやっているわけにはいかない。文化祭みたいな仕事をしたいなら、広告代理店が向いていた。担当の先生はそこのところをちゃんと見抜いていた。先生の机には「広告批評」が置かれていた。広告業界に理解を寄せている人なのだろうか。「どうして広告の雑誌が?」と聞きたかったが聞けなかった。先生もそのことには触れなかった。
寄り道して「教える仕事」に
広告キャンペーンを企画してカタチにする仕事は、実際、文化祭に通じるものがあった。その後、脚本家になり、今も文化祭のような仕事を続けている。
教師にはならなかったが、巡り巡って脚本を教えたり、講演の講師をするようになった。脚本家、ときどき講師。たまにやるのが向いているみたいだ。
そんな身の上話をかいつまんで講演で話しながら、「すべての寄り道はつながっている」と思った。寄り道という伏線を回収しながら次につなげていっている。長く生き、仕事を続けているほど、「接点」はふえ、つながる確率は上がる。
そして、この日の出席者の1割強を体操部が占めていた。「体操部って今もあるんですか?」と原稿に書いているが、卒業とともに遠い存在になっていた。OB会もふわっとしていたのだが、この夏グループLINEができ、OB同窓会を開き、つながりが広がりつつある。体操部の思い出を綴った原稿は、OBの人たちには特に親しみと懐かしさを感じていただけたのではと思う。
わたし自身はこの原稿のことをすっかり忘れていたので、仲林会長に掘り出していただき、つながった。仲林会長は「三丘スポーツ史III」の編集に関わられていたので記憶に残っていたのだという。これもご縁。
体操部は、今もあります!
今井雅子「寄り道ブドウ」(2007年刊行「三丘スポーツ史」寄稿)
ある昼下がり。
東京のとある喫茶店のテーブルにて。
雑誌記者が脚本家の今井雅子を取材している。
記者「出身は大阪で、高校は…..(手元の資料を見て)あれ、三国丘って甲子園出たことありますよね」
今井「よくご存知で」
記者「進学校なのに出場ってけっこう話題になってましたよね」
今井「わたしが入学する少し前なんですよ。わたしの在学中は初戦敗退ばっかりでした。授業さぼって応援に行きましたけど」
記者「ご自身も運動部に?」
今井「はい。器械体操部に。小学生の頃、教室に通ってたので」
記者「文武両道だったわけですね」
今井「両道っていうと、学業も武道もバリバリって感じですけど。入賞を狙って猛練習するような厳しい部じゃなくて、学業が本業なら、武道は寄り道って感じでした」
記者「寄り道武道ですか」
今井「なんか、おいしそうですね。寄り道ブドウって」
記者「お好きなんですか、ブドウ?」
今井「食べることが好きなんです。部活の帰りに駅前で買い食いするのが楽しみでした。アイスとかクレープとか生ジュースとか」
記者「寄り道ブドウの帰り道に、また寄り道ですか」
今井「(笑って)運動の後の甘いものが楽しみで体動かしてた、みたいなとこありますね。OBからの差し入れのカルピスとか、部員全員に行き渡るように薄めるから、とんでもなく薄いんですけど、やたらおいしかったです」
記者「青春ですね」
今井「若さがなきゃ飲めない味です」
記者「他に部活動の思い出は?」
今井「部室があったんですよ。廊下がミシミシ鳴る本館の一階に」
記者「練習場とは別ですよね?」
今井「(笑って)開脚もできない広さです。畳二畳ぐらいの部屋に漫画がびっしり詰まった棚とベンチがあって。授業が休講のときや、たまに休講じゃないときも、よくそこで過ごしました」
記者「授業中も寄り道、ですね」
今井「教室以外に居場所があるって、いいんですよ。隠れ家みたいで。ピアスも部室で開けましたね」
記者「え? ご自分で?」
今井「開けあったんです。耳鼻科だと三千円取られるけど、ホチキスみたいなキットだと千円ちょっとだからって。耳たぶを冷やすと麻酔代わりになるって聞いて、三国屋っていう校門前にある食堂でコカコーラの紙コップに氷だけ入れてもらって」
記者「よく覚えてますね。(手元の資料を見て卒業が平成元年だから、二十年近く前のことですよね?」
今井「もうそんなになりますか。二十年かあ。三国屋も店を閉めちゃって、本館も老朽化で建て替えちゃったんですよね」
記者「体操部は今もあるんですか?」
今井「え? なくなったとは聞いてないですけど。ありますよね、きっと」
記者「当時の仲間とは今も連絡を?」
今井「はい、何人かとは」
記者「二十年物の友情ですね」
今井「部活をやっていると、交友関係も教室の中だけじゃなくて広がるんですよね。先輩後輩とか、大学生や社会人になったOBとか。他の高校の友だちもできたんですよ。合同練習会や大会で知り合って」
記者「体操部の大会ってどんな感じなんですか」
今井「オリンピックなんかでやってるのと競技は同じです。技のレベルがうんと低いですが。大会の前日に、会場の設営をするんです。床運動のマットは木に布を貼った畳大のボードを何十枚も組んで作るんですけど、巨大パズルを組み立てるみたいで大仕事でした」
記者「そのマットの上でくるくる回ってたわけですか」
今井「宙返りってことですか? わたしはバック転止まりでした。自分で選曲して振り付けするんですけど、緊張して頭マッシロになると、振り付けが吹っ飛んでしまうんです。そういうときは、適当にくるくる回ってましたが」
記者「体操部での経験が、その後の人生で役に立ったりしていますか」
今井「わたしは広告会社のコピーライターを経て、脚本家になったんですけど、広告を作るにしろ映画を作るにしろ、どの大学を出たかよりも、人生でどんな経験をしてきたかが物を言うので、学業以外に打ち込むものを持てたことは、いい栄養になっていると思います」
記者「実りの多い寄り道だったわけですね」
今井「三年かけて熟した、おいしいブドウでした」
記者「こういうインタビュー記事をでっち上げるのも朝飯前というわけですね」
今井「そうですね。教室でも多くのことを学びましたけど、視野を広げたり、頭をやわらかくしたりしてくれたのは、体育館や部室で過ごした時間なのかな、と思います」
記者「運動部に限らず、寄り道はすべし、ですね」
今井「文化祭や体育祭にもとても気合が入る高校だったんですが、そういう偏差値に直接関係ないところに時間や労力を費やせることが、人間を豊かにしてくれる気がします。時間は作るもの、というやりくりの発想を持って、今の在学生たちにもたくさん寄り道を楽しんで欲しいですね」
緑の「利休楽」でつながる
話すのが苦手と言いつつ、三丘同窓会の仲林会長の開会挨拶はチャーミングで笑いも取っていた。詳しくはお配りした資料をと「寄り道ブドウ」につなげていただいた。
また、仲林会長と同級生で以前からやりとりさせていただいている丸山登志子先輩からは「日持ちのする堺のおいしいもん」ということで八百源の抹茶カステラと曾呂利の鳴門金時芋をいただいた。どちらも堺の名店。
抹茶カステラの名前は「利休楽」。講演の中で堺が舞台の『嘘八百』で利休の緑楽をでっち上げた過程を紹介したが、ここでもつながった。
黒いお皿の作家、福岡彩子さんも高校の先輩。
講演の様子が活写されたレポートが三丘同窓会のサイトに。「鳥獣戯画でドラマを作ろう!」の発表内容も再現されているので、ぜひ。
clubhouse朗読をreplayで
2024.2.10 やまねたけしさん
目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。