あるモードの再生機として(1)
表現やアートを創作したり、または誰かに何かを伝えるとき、その行為自体がなんだか心もとなく掴みどころがないとずっと思ってきた。
そう、それは本当にその通りなのだけど、なんだかそのキレイな言葉だけではまだ心もとない。
障害となる原因はわかっていて、素直な表現の邪魔をしたり壁になるのは自分の中にある小さなエゴ、というところまでの目処はついているのだけど。
そんなことを考えるのにも疲れたある日、最近お気に入りのとあるYoutuberさんのライブ配信をいつものように楽しんでいた。
ライブ配信とは基本的には、画面内に主体となる配信者がいて、その発言や場の流れを受けたり読んだりした視聴者さんたちが、それぞれ自由にそのタイミングでチャットで発言したり交流したりする。
これがとても楽しいのだ。なんというかラジオで置き換えると、リアルタイムでリスナーたちのお便りを読み上げてもらえ反応が受け取れるので、ハガキ職人的な魂が燃えてくるというか(笑)。
配信者さんに画面越しに会えるのはもちろんのこと、あ、今日もあのリスナーさんがいるな。あの人はきっとこういう人なんだろうな、なんて想像するもの楽しい。
そういう謎の連帯感が高まっていて、ますます楽しくなると、心なしか配信者さんもどんどんノリが良くなり本人の個性が発揮される。それがまた循環して皆もまた楽しいからまた応援したくなる。
そんな配信が終わったある日、なんだかとても幸福な気持ちに包まれ、あーなんだかその時間が終わるのが名残惜しい、まだ楽しい時間の中にいたい、なんて思いながらベットにまでスマホを持ち込み、子守唄代わりに終わったばかりのその配信をもう一度聴きながらウトウトしていた。。
その時にふと気づいたことがあった。
(つづく)
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