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レポートは「構え」からあらためよ

多くの学生がレポート作成に苦労している。もっともだと思う。これまで感想文とか結構書いてきて、大学に入っていきなり「レポートを書け!」と言われても困る、といったところだろう。しかも、レポート提出を求める割には、誰もレポートとは何か、どう書けばいいのか、について教えてくれない。

多くのレポートを読んできた経験から言って、学生がどこで躓いているかというと、レポートを書く技術よりはるか手前、つまり、「書くこと」に対しての構えのところで、すでに躓いている

感情の吐露としての「感想文」文化

感想文文化の我が国では、レポートを書く際にも、ついテーマについてどう「感じたか」を書いてしまいがちである。つまり、共感、感覚、情緒というアンテナを通じて、自分の感じたところをつづっていく。「レポート」のつもりで読んでいて、違和感を感じる場合、その多くはこのような前提で書かれている。

典型的な例としては、読んでいてやたらと文末が「~だと思う」、「感じる」、「考える」、「かもしれない」、「という印象を持った」といった表現で終わっているものだ。特に、段落(段落さえないレポートもある、つまり、短文の集積でしかないケース)を終える際に、これまで書いてきたことに対し、まるで着地点を見つけるように、最後このような表現でやさしくふんわりと包み込んで、段落を閉じている。

実は、レポートというのは、書き手が何を「感じたか」というフィーリングについて書くものではない。それは、何を「思考したか」を書くものである。比喩的に言えば、心を介して書くのではなく、脳を介して書くのである。

レポートは「脳」で書く

「感じる」「思う」「考える」等がちりばめられた文章、また、そのように段落を終えている文章を「思考」という視点で見てみると、思考がそこで停止しているのに気づく。もちろん、筆者がそう感じ、思い考えるのは当然であり、自由だ。多いに感じ、思い、考えてほしい。

しかし、問題はこういう文章は往々にして、論理がそこで止まっていることだ。つまり、本来はそう「感じ」、「思い」、「考え」た後、なぜそう「感じ」、「思い」、「考え」たのか、未だ言葉にならないもやもやとした感情や情緒のその「根拠」こそを言語化する探求的な作業、これがレポートなのである。フィーリングで満ちた文や段落でオブラートに包んで、思考を止めるのではなく、そこから丹念な思考を始めるのである。

したがって、「レポート」を書きなさいと言われたとき、私たちは「書く」という行為自体への「構え」をあらためる、あるいは、整えるべきなのだ。

レポートとは「コミュニケーション」だ!

そこでレポートを書くにあたっては、レポートとは、「自分の意見に共感するとは限らない他者と互いに説得し合うコミュニケーション」である、と考えよう。

とにかく、多くの場合先生やクラスメイトであろう、「読み手」という相手は、単純に自分でない誰かだ。それは、双子の兄弟・姉妹のような相手ではない。食べ物の好みから理系・文系、あるいは支持政党まで、強制もなしに君の言うことは100%正しい、君と私は常に同意見だ!とは言ってくれない。それがあなたがレポートを書く際に想定される相手、すなわち、「他者」なのである。

ここでの「他者」は他人ではない。というのも、他人であればそれなりに共通点なり、結構似たところが多い場合もあるからだ。ここでいう「他者」というのは、よく大文字の他者(Other)といわれるが、あなたとは絶対に交わることない、共通項も度量衡もない、絶対的な他者のことを指す。少なくとも、理念的には、あなたが「レポート」を書こうとするその先に、その絶対的な他者を座らせて語りかける自分を想定しなければならないのである。

その「他者」に、理念的には絶対に「そうだね」と言ってくれなさそうな相手に、「うーん、そうか、そういわれればなんかそう思えてきた」「なるほど」「あーね」と言わせるコミュニケーション・ゲームといってもいい。そのためには、論理を飛ばさず、一歩一歩丁寧に思考を進め、誠心誠意、言葉を尽くす。レポートとは、まず、そういうコミュニケーションへの「構え」の問題なのである。

まずは、膝と膝と突き合わせて「他者」と向き合い、酒でも酌み交わすようなつもりで、言葉を交わす。それは何が何でも相手をねじ伏せてやろうという言葉による「戦い」ではない。そこには、向き合っていたはずの他者はおらず、それは圧倒的に独り言に近くなってしまう。レポートとはあくまでも他者とのコミュニケーションであり、その意味で「対話」なのである。

「レポートの書き方がわからない」と頭を抱えているあなた。あるいはイラついているあなた。この雑文がかえってあなたを悩ませるのか、それともあなたにとってのインスピレーションになるのかはわからない。しかし、何か新しいことを始めるのに形から入る人がいるように、まずは、レポートを書く際にも、まずはそういうマナーから入ってみてはどうだろうか。

追記

私は教員養成系大学に勤務しているということもあり、教師を目指す学生たちにもう少し言葉を添えておきたい。

レポートを書くことが読み手に対して投げかけるコミュニケーションであるということは、そのレポートを読む教員(例えば私)にも同様のコミュニケーションへの構えが求められることになる。「これは論理が破綻しているからダメだ」、「全然レポートになっていない」といった、学生を切り捨てるような権威的態度は、レポートの指導どころか、学生とのコミュニケーションの断絶を意味する。

したがって、「教育」という意味では、教員が他者としてレポートの書き手の前に立ちふさがるときは常に、「未熟」な書き手を引き上げようとする、対話する他者でなくてはならない。自戒を込めて言えば、レポートは常に応答として「返却」されなければならないし、べた褒めするでも、けちょんけちょんにけなすのでもなく、あくまでも論理に対し論理で答える、大人なコミュニケーションでなければならない。

この文を教育大生が読んでいたとしたら、君たちもいつしか、子どもたちが書く文を読む立場になるだろう。何年後かはわからないが、君たちもその日までに、コミュニカティブな書き手になっていなければならない。大学生である今、レポートを書く行為はそのための手段である。だから、やみくもに書くのでもただこなすのでもなく、正しい構えと真摯な態度で言葉を紡いでほしい

僕在学中は、僕が他者として君たちに向かおう。その君たちが、将来他者として子どもたちと向き合う。教育とは、まさにこのようなコミュニケーションの連鎖でもある。長々と書いた。たかがレポートではある。しかし、その背景には、確固たる対話の哲学があるのだ。

#レポートの書き方

#コミュニケーション哲学

#対話


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