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交差する「右」の視線―国という色眼鏡―

「香港国家安全維持法」が成立、施行され、すでに多数の逮捕者が出た香港。激しい衝突と逮捕の映像を見ながら、香港の人たちを憂いている。同時に、「自由」を守ろうと戦っている姿に心が震える。

アメリカに端を発したBlack Lives Matter、通称#BLMを文字って言うならば、Hong Kong Lives Matter、すなわち #HKLM とでもいうべき事態だ。

ところで、Twitterから流れてくるツイートを眺めていると、不思議なことが起こっている。右も左も、同じように中国政府を非難しているのだ。

お気づきだろうか。上の2つ記事は、ともに「あの」産経新聞である。「370人逮捕」という数を出して事態の深刻さを知らせ、また、「香港は死んだ」と題した記事を1面トップに掲載もしている。敵の敵は味方ということだろうか。左派もびっくりである。

「パトリオット」≠「ナショナリスト」

確かに、右と左は足並みをそろえているかのようだ。しかし僕の目には、中国を非難している右派のメンタリティは、まさに彼ら彼女らが批判している中国政府そのものに見える。「日本」や「日本人」を中心に据えるその語り口は、「一つの中国」を語る口調・行為に実によく似ていないだろうか

香港を監視しようとしている中国政府を批判する自身も、実は、監視者として国内における他者を排除し、管理しつつ、中国を監視しているのではないか。ここにおいて、監視する視線は複雑に絡み合う。「中国は!」と指差したその先にあるのは、「鏡」に映った自分の姿であるかのように。

思考に「日本」を据える方々を支える「愛国心」。そもそも「愛国」とは何か。英語でいえば、patriotism。その語源であるパトリとは「故郷」を指す。つまり、文字通り、本来パトリオティズム自体に「国」は存在しない

日本語でも「お国はどこ?」というように、国は必ずしも「国家」をあらわすものではなかった。しかし、マッチョに愛国心を唱える人の「愛」の対象として、「心」のなかに、まさに愛と心に挟まれた「国」という国家思想が忍び込んでいる。

日本語の世界観に埋もれていると、つい愛「国」心というフィルターを通して物事をみてしまう。これこそ僕が、誰しも外国語を学ぶ価値があると考えるゆえんだ。今、日本語、外国語という言い方をしたが、「日本」語 vs. 外「国」語という認識の作法にも「国」意識が紛れ込んでいることにお気づきの方は、勘が鋭い。

博士論文の一部で、新聞のオピニオン欄の内容分析をしたことがあるが、実に多くの人が日本語のことを母「国」語と呼んでいることに驚いた。英語にすればnative languageやnative tongueであって、native "country" language/tongueとは呼ばない。つまり、国を介在させてしまう思考は私たちの「癖」だということだ。

こういう視点を、僕は姜尚中氏や中島岳志から学んだと、記憶している。例えば、以下は中島氏の言葉である。

パトリにはもうひとつ「郷土」という意味があります。僕と姜尚中さんとの対談『日本 根拠地からの問い』(毎日新聞社)の中で使っている「パトリ」は、どちらかというとそういう、ある種の顔が見える領域から、どんな風に物事を立ち上げていくか、という問題です。つまり、ナショナリズムと、郷土というものを前提としたパトリとは、必ずしも一致しないと。

こうして考えてみると、日本語で言う「愛国者」のイメージはパトリオットではなく、ナショナリストに近いのではないか。「ネイション=国民」とそれ以外を分け、差異の番人として「外国人」の前に立ちはだかるナショナリスト。僕らはいつの間にか、心の中にこうした「番人」を植え付けられている。

みんな混血

こうしたナショナリストが自らのナショナル・アイデンティティを保持するには、仮想敵国や国民を脅かす敵を必要とする。そして、それらを排外することによって内的な「純度」を保つことができる。今村仁司氏がいう「第三項排除」による内的純化である。つまりその「純」は虚構である。

「日本人」であることを語ることは、「血」のイメージを喚起させる。私たちに日本人の「血」が流れていて、それが時に「外国人」の血と混じると「ハーフ」や「クォーター」と純度が下がる、という発想だ。

しかし、血は血にすぎない。それはヘモグロビンであり、白血球や血小板入りの赤い液体なのであり、顕微鏡で血眼になってみてもどこにもmade in Japanなんて書いてない。

つまり、だれもが生物学的な父と母の「混血」なのだ。地理的にも佐賀と東京の混血かもしれないし、種類としてもA型とO型の混血かもしれない。何千年、何万年前の出自を考えたら、さらにどこに「国」の境目を引けばよいのか混迷するばかりだ。

純血なんてもの自体、存在しない。見た目ではどれが誰の血か、言い当てることもできない、小瓶に入ったさまざまな血液を前に、私たちがどうそれらを切り分け、分類するか。純血とか〇〇人の血とかいうものは、人間側の事情によって、事後的に持ち出された「認識」の作法の問題なのである。

ある人々の血を「純血」として括る行為は、ローカルよりナショナルなものを「優先」して考えているという証左である。国民国家体制を優先する政治的な思想を「透明」と考える「癖」がそこにある。

政治的「効果」としての「日本」

学習指導要領を見ても、道徳における「愛国心」にしても、教育には国を出発にする「癖」が紛れ込みやすい。「日本」や「日本人」は、教育やアイデンティティの出発点でも原点でもない。むしろ、故郷を語る際、勝手に「国」という政治体制を介在させる「癖」こそ、国家による教育の政治的効果そのものである。(このあたりは近代国家の成立の歴史など参考にされたい)。

そもそも教育界の住人のほとんどは、私を含め、現教育システムの「成功者」である。私が勤める教育大学も同じだ。教育界の人々が紡ぐ言説と自らがかけている色眼鏡とが同じ色をしているならば、自分の教育信念や教育行為の政治「色」を見ることができない。本当は自らの視線が色に染められているにも関わらず、赤いサングラスをかけていることを忘れ、空を夕焼けだと思ってしまう。

故郷(パトリ)の風景

排除の対象になりやすい、外国にルーツがあるマイノリティ。なかでも、日本で生まれ育った子たちにとって、パトリはどこにあるのだろうか。父方の記憶にあるパキスタンの山脈だろうか。母方の記憶に残る上海にそびえる摩天楼だろうか。それとも、6年間通った地元の〇〇小学校の教室やそこから遠くに見える海、校庭の満開の桜だろうか。

その子らが抱く望郷の念の内実は、ひょっとしたら日本のナショナリストが描くそれと何ら大差ないかもしれない。

国家からプレゼントされた色眼鏡の色をチェックせず、目の前に立ち上がっている世界を「現実」だと思う、鵜呑みの思想は危うい。富士山を日本の象徴のように思い浮かべる人のうち、静岡県や山梨県などの出身でなければ、その風景はいつどこで植え付けられたか問うべきだろう。

ここで求められるのは、たくましい「想像力」である。先のB.Andersonの『想像の共同体』には、皮肉なことに、想像力が会ったこともない人々を同じ「共同体の住人」(国民)と見なす力として近代国家の立ち上げに利用されている様が書いてある。しかし、ここでいう「想像力」が暴くのは、自分が知らないうちにかけている色眼鏡の色である。そして、そういう想像力を育むために、若いころにいっぱい多様な価値観と出会い、自らを相対化する視点を自分の中にもっておく方がいい。

現在、米中は仲は険悪だ。一方、中国ファースト、アメリカファースト、日本ファーストを前提としたそれぞれの思考は、あまりにも似かよっている。だからこそ、とても仲が悪いか、逆にべったりになるのだろう。三面「鏡」のなかで展開する、コピーのコピーのコピーのコピーの・・・(x ∞)。

「日本好き!」と感じることは、その人のパトリの線引きを示しているだけであり、それ自体は悪ではない。また、現時点では国民国家という政治的枠組みは必要だとも思う。しかし、教育あるいは政治を語る意識に、他国に対するヘイトの萌芽が潜んでいるなら、気をつけた方がいいと思っている。本来、patriotとして自分のパトリに対して思いを馳せるとき、そこに排除や憎しみは不要なのだから。

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