見出し画像

映画『タゴール・ソングス』観ました

普通なら研究室ブログに書くところですが、先日noteの登録をしたので、こちらに書いてみようと思います(まだ勝手がわからないが、使い方が手ごろで「ポップ」だな)。

タイトルを見てお分かりの通り、映画『タゴール・ソングス』(佐々木美佳監督)を観ました。本来なら県内のKBCシネマで鑑賞するところですが、このご時世で上映中止中。

ところがなんと、「仮設の映画館」という、指定の映画館にお金を払ってネットで観れる、という仕組みで本編が上映されていることを知りました。ということで、先ほど観終わりました。

そもそもこの映画になぜたどり着いたかというと、ある意味「偶然」なんです。先日苫野一徳さんが出ていた対談をYouTubeで見ていたのですが、その対談相手であった税所篤快さんが宣伝をしていたのを見て、興味がわいたんですね(この対談、とても素敵なので学生に見てほしい!)。

物事のきっかけって、遡っていくといくらでも遡行できるんですよ。

例えば、苫野さんを知ったのは、その師匠の竹田青嗣さんの本に影響を受け、研究会で苫野さんをお見かけしたことがあったからです。その竹田さんの本に出合ったのは、アメリカの院生時代に同世代の院生に紹介してもらったから。その院生に出会ったのは、僕がコミュニケーション学を専攻していたから。その学問に興味を持ったのは、大学時代ESSに所属していた院生の方に異文化コミュニケーションの本を紹介してもらったから。and goes on and on and on...

そうなると話はさらに、なぜその大学に入ったか、それまでに影響受けた先生たち…というように、最後には自分の生誕にまでたどり着くほど、物事って輪廻しているんです。このように考えると、どれも「偶然」ではなく「必然」にさえ思えてきます。

実はこういう「つながり」って、『タゴール・ソングス』と大切なテーマなんじゃないかな、と思います。

「歌う」という普遍

僕はこの映画のことを、ローカルを話題にした映画で、そこから敢えて普遍的なことを見出すようなテーマ設定をしていると思っていました。もちろん、それも間違いではないでしょう。しかし、観終わった今となって思うのは、そもそも人間は「歌うこと」を人間的条件として普遍的に埋め込まれた存在なのではないか、ということです。僕にはこの映画が、ローカルではなく普遍を出発しているように思われた。

僕はこれまで、「語り継ぐ」という言葉をよく好んで使っていました。それが人間にとって大切なことだと思っていたから。しかし、この映画を観ると、実はその前に人はその「語り」を歌にのせ、「歌い継い」できたのではないか、と思ってきました。

人は言語を持つ前には、雄たけびや指差しで意図を相手に伝えていたわけです。歌と言えば、鳥だってさえずります。人が歌に言語を載せ、知恵や文化を周りの人、あるいは異世代の他者に「歌い継ぐ」ことを知ったとき、私たちは人間となる契機を得たのではないでしょうか。

現代人の悩みはインドと日本という空間を超え、人は悲しみや苦しみを時代を超えて歌で埋めてきた。その意味で、歌は宗教という普遍にも似ているともいえます。

宗教には常に歌がある。教会にはクワイアがいるし、これまでに行ったアメリカのプロテスタントの教会ではどこもバンド演奏がありました。仏教のお経も、歌と言語の融合にも聞こえる。お経とラップの間の距離は、さほど遠くないはずです(映画を観てそう思いました)。

異世界に飛び出る

本来人の心の隙間を埋めてきた宗教は、現代人が脱魔術かされ、「モノ」に囲まれた生活に憧れ始めたとたん、人々の心から追い出されました。その空洞を埋めようと、孤独な現代人は欲望に従って、様々なものを詰め込もうとします。自分の巣にガラクタを集める動物たちのように。だから宗教「的」なものに騙されたり、酒や薬に溺れてしまう。

悩んだとき、人はなぜインドに行くのか(という人もいる)。そこに人として「忘れた」落し物がある、と感じるのでしょうか。本当は別にインドじゃなくてもいいし、ガンジス川に入らなくてもいいのかもしれません。でもインド(?)を求める。ある人が僕に、「インドに行くと好きな人と嫌いな人と極端に分かれる。でも、人生観変わるよ」といいました。

それは、人は自分の「外」にある異世界に飛び出ることを求め、その象徴がインドなのではないでしょうか。そうすることで、自分が囚われていた「檻」を自覚し、実はそれは自分の心の中に築いた「幻想」であり、他者と共有することによって「本当」だと信じていただけに過ぎなかった、ということに気づくことができる。そう、心のどこかで直感しているからなのかもしれません。

ふらっと映画を

『タゴール・ソングス』を見て、僕は一度異世界に出ることが出来ました。そして映画終盤に、日本に帰ってきました。こういう瞬間的な旅が映画のよさです。時空に縛られない。なんなら、独特なスパイスの香りまで画面から匂ってきそうなリアリティが『タゴール・ソングス』にはありました。

歌を信じる人は強く生き、迷う人は歌を水先案内人として招き、旅に出る。日本に生きる僕らがどこかに「忘れて」きたものは、「歌」的なものの中にあるのではないか。そのことにハッと気づかされました。

何も、人は迷うときにだけ異世界に行く、ということでなくていい。何気ない日常でも何となく、ふらっと外に出てみるといいでしょう。だからこそ、僕はぜひ『タゴール・ソングス』を、日常の当たり前を生き、ある程度の刺激に富みつつも今後に何となく不安を感じている、そんな多くの学生のみんなに見てほしい、と願っています。

別にドンパチあるような派手な映画じゃないんですよ。だからこそ、ゆっくりとした時間の流れに身を委ねてほしい。その流れは100年以上の歴史の流れでもあります。そして、一気にインドやバングラディッシュに飛んだ後、Tokyoにテレポーテーションしてほしい。そこに時代の風雪を耐え忍んだ「歌」を発見してほしい。魂を解放する裂け目が現れ、今と昔の自分を断絶し、代わりに歴史と自分の連続性を感じる、そんな瞬間に出会うことができるかもしれません。

さいごに―現実と物語の狭間で―

森見登美彦『熱帯』という本があります。この本を読んだとき、なんとも言えない不思議な読後感を覚えました。これは完全なフィクションなはずですが、そうとは言い切れないようなリアルな肌触りが残りました。

一方、『タゴール・ソングス』はドキュメンタリー映画です。「現実」を映していますが、そこにあるのは、人が歌という作り物を「信」じる姿、物語を信じることで「生かされている」姿です。

前近代と近代、現実と虚構、『熱帯』と『タゴール・ソングス』が交差する地点に、僕ら人間はそれぞれ孤独に立っている。そして、生きるために歌を欲している。これほどまでに、品やかに、しかし潔く現実を切り取って見せる映画を僕は知りません。

『タゴール・ソングス』、おススメです!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?