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愛と怒りのスタートアップ、歴史を変えるパッドマン

1月1日に、友人に誘っていただき、「パッドマン」という映画を観た。
2018年2月に公開されたインド映画であり、日本では2018年12月から各地の劇場で上映されている(上映規模はボヘミアン・ラプソディに比べるとだいぶ小さいが)。
映画の原題は”Padman”、日本での公開タイトルは「パッドマン 5億人の女性を救った男」。

大袈裟なタイトルに思われるが、これは実話を題材にした映画であり、5億人の女性を救ったというのもあながち嘘ではない。

未見の方のために手短に物語を紹介する。
1990年代末においてさえ、インドでは女性用の生理用品(ナプキン)がほとんど使われていなかった。それにはいくつか理由があった。宗教的理由で女性の生理が不浄とされていたこと、人前で生理のことを話したり対応したりすることは恥ずべきこととされていたこと、また使い捨てナプキン自体が高価で輸入品を買うしか選択肢がなかったこと、など。結果的に、女性たちは不衛生な環境に置かれ、それによる病気、死の割合も少なくなかった。
そんな中で、主人公の男性ラクシュミは、新婚の妻ガヤトリが汚い布で生理に対応して、そして家族からも遠ざけられる状況に怒りを感じた。彼は試行錯誤の末に、ナプキンを安価に製造できる装置を発明する。そして、その装置をインド中に普及させることで、ナプキンの製造販売ビジネスを女性たちが営むことができるようにし、ナプキンの普及と女性の雇用をどちらも拡大させるという奇跡のような社会の大転換を起こす。
という、実話を元にした物語である。

さて、私自身はなんの前知識もなしにこの映画を観に行った。
観終えた結論をひとことで。
心がぐわっと熱くなって、時にユーモアで腹から笑い、話が進んでまた心が熱くなった。
今年1番、観て良かった映画だった。1月に観た映画はこれしかないから比較はできないんだけど(笑)。

本作パッドマンは、物語として、いくつかの見方ができる。

1つめは、愛と怒りの物語。
2つめは、スタートアップの物語。
3つめは、歴史の物語。

「愛」というのは、文字通り、主人公ラクシュミの妻ガヤトリに対する、あるいは妻ガヤトリの夫ラクシュミに対する愛が中心にある、ということだ。
確かにラクシュミは優れたハードウェア・エンジニアであったが、それだけでは彼はナプキン製造装置の開発に乗り出すことは生涯なかったであろう。妻に出会い、結婚し、そして妻が理不尽な状況に置かれていることに強い怒りを感じた。その状況を変えるために、彼はナプキンを手作りするところから始める。
妻への強い愛と、理不尽さへの怒りが彼の原動力なのだ。そして映画を観れば分かるが、ガヤトリのほうも色々あって彼に怒りをぶつけたりもするのだが、愛を持って彼を信じている。

「スタートアップ」の物語というのは、本作の主人公ラクシュミは、生粋のアントレプレナーであるということだ。
世の中のスタートアップのビジネスには2種類ある。ひとつは課題解決ビジネスであり、もうひとつは社会期待創出ビジネスである。別の表現をすると、前者は社会の不幸を取り除く対価を得るビジネスであり、後者は人が恋い焦がれるような新規価値を生み出してそれをお金に変換するビジネスということだ。
パッドマンことラクシュミが取り組みを始めたことは、妻をはじめ女性の不衛生を取り除くという、明確な課題解決事業であった。だが、上に説明したとおり、必ずしも輸入品の生理用品の価格の高さだけが、ナプキンの普及を妨げていたわけではない。どちらかというと、宗教的ならび因習的理由で、女性の生理を不浄としてそもそも遠ざけようとしていた社会状況こそが根源的な課題の真因であった。果たしてそんな巨大で重い構造を変えることが、小さなスタートアップ/組織に可能なのか? これは、重い社会課題に取り組む起業家(あるいは政治家や非営利団体メンバー)であれば、誰しもぶち当たる壁であろう。
結論から言うと、時間はかかっていてまだ道半ばではあるが、ラクシュミと彼のスタートアップは、この重い状況の変革の戸を開いていく。ではなぜそれができたかというと、彼が製造装置を独占して、会社を大きくしてナプキンの販売で大儲けしようとせず、製造と販売の権利を地方の抑圧されていた(そして生理用品を使えず、仕事を持っていなかった)女性たちに開放し、彼女たちの商売をせっせと支援したからである。
ラクシュミ自身はたしかに「成功者」になった。ビジネスは軌道に乗り、社会からの賞賛も得た。しかし彼はそれ以上の蓄財や名誉に関心がなく、女性たちの自立と衛生確保を後押しすることを大目的として行動した。結果的に、彼が支援した地域にはナプキンを使い、それで商売をし、価値を伝播させていく「ナプキン・エバンジェリスト」の女性がたくさん生まれた。力を持ち、声を上げ、権利を主張することができるようになった女性たちこそが社会変革の主体となったのである。

かように考えてみると、ラクシュミが始めたナプキンの安価な製造装置の開発じたいは課題解決ビジネスであったものの、その事業の道のりは、社会期待創出の性格を強く持つことで、結果的に社会を動かし、課題解決それ自体の質と量を劇的に高めていった、と言えるのではないだろうか。どんな社会期待創出を起こしていたかというと上述のように、「生理用品を使うことを当たり前だと考え、それを商売にすることで、自分に誇りを持つことができる」ということだ。それまでそんな期待を持ったことがなく、抑圧された状況を受け入れるしかなかった女性たちが、そこに疑問を持ち、変えるために行動できる可能性を知ることができる。それは、手の届く期待だ。人は、手が届く可能性に期待が持てるからこそ、未来のために歩み続けるエネルギーが湧いてくる。そして、それが何人も集まることで、情報と伝播が起こりやすい状況が形成され、現実に伝播が起こるのだ。

社会の因習は、多くの場合宗教や権力、利権とがっちりと癒着として、強固であり、変えることを諦めたほうが、日々を生きるには楽なものだ。一人で因習に立ち向かっても、そこに跳ね返され、心を折られ、あるいは文化によっては実際に肉体に傷を負うことだってある。因習を変えるのは、人々が繋がって生み出す、波の連続だ。
劇中でも語られるように、パッドマンことラクシュミは、スーパーマンではない。学歴もなく、お金もなく、あるのは平凡な安い技術を活用して目的を果たそうとする「チープ・イノベーション」の思考法と、とにかく諦めないで試作と実験と学習のサイクルを繰り返すスピリットだ。そこにあるのは、前述のとおり、愛と怒りだ。

3つめ、これが「歴史」の物語というのは、これまで書いてきたことのまとめである。
世界の歴史というのは、「サピエンス全史」「ホモ・デウス」の著者ユヴァル・ノア・ハラリが語るように、戦争、飢饉、疫病という3つの災厄を克服する方向に進んでいる。もちろん国や地域によって、進展の度合いに差はあり、日本やヨーロッパと比べれば、インドの克服状況が遅れているのは明白だ。なぜインドがそうなのかといったときに、ブレイクダウンしてみるとたとえば疫病対策が不十分で、それもさらに理由を掘ってみると、生理期間における不衛生な状況に置かれる女性の割合の高さも原因の1つなのではないかという推測は成り立つ。
言い換えれば、生理用品が普及し、それを使うことが当たり前になり、その製造販売に関わる女性が増えて経済力を持って、科学知識が高まるという循環が形成されていくことは、女性の疫病にかかる割合が低下し、死亡率が下がる。これはつまり、歴史が進展するということにほかならない。

さて、日本に生きる私がこの物語から学べることはなんだろう?
まず何よりも、恥ずかしながら、私は女性の生理がどんなもので、どんな大変さがあるのかを知らなかった。Webサイトや本でぱらぱらと情報を目にしたことはあったけれど、それは結局のところ男性の身体を持つ私には起こらない現象であり、どこか他人事の世界の話だった。
だが本作を見たことで、生理という現象に適切に対応できない社会は、病気にかかる危険が高く、そしてなにより女性の尊厳を守らない社会であるということが、ようやくに理解できた。

確かに日本は生理用品が普及しているし、経済力もそれなりにあるので(すべての人が豊かだというつもりはないが)多くの女性が自費で(または家庭で)清潔な生理用品を買えるという意味では、インドよりはずっと社会状況は良いとは言えるだろう。しかしながら、男性の知識と理解という意味では、実際のところインドに比べてどれくらい進んでいるかというと、相当に怪しいのではないかと思った。
会社において、たとえば女性が生理痛で休みを取ることに対して冷たい態度をとる男性は少なくないだろう。そして、女性の側も、言っても理解されないしデリケートな話だから言いたくないという気持ちになるだろうし、痛みに耐えて出勤する人もいるだろう。
働き方改革などと言っているけれど、そもそも身体上の理由で、移動や活動の際に生じる苦痛を減らしたいという希望が発生するということが理解できていなければ、制度を作っても文化が生まれずに、結局働きづらさを感じるままなのは変わらないのかもしれない。

ちょっと話が逸れるが。たとえば風邪を引いた時に、なぜか日本人は無理を押して会社に来てしまう人が多いように思う。それは当人のためにもならないどころか通勤途中で居合わせる人たちや、同僚たちにとっても病気を移される危険のある、まったく推奨されない行為であることは、科学的に考えれば明白だ。
事実、私が前に勤めていた外資系ベンチャー企業(オフィスは都内)は、外国人従業員が過半数であったが、体調を崩したら出社しないのは当然のことだった。むしろ、体調不良を押して出勤しようものなら、他の社員を危険にさらしたということで、非難されても仕方ない雰囲気だった。あれは極めて妥当だと思う。
多少体調が悪いけど働けるのであれば、自宅でリモート勤務をすればいいし、それが無理ならおとなしく休めばいい。それができるように、普段から仕事を可視化して、ステータスをチーム内で共有しておくことが当たり前だった。

日本企業の日本人が体調不良でも出勤してしまうのは、結局のところ仕事の整理ができておらず、チーム内での分業と進捗管理が成立しておらず、それに加えて出社していること自体が仕事をしていることだという歪んだ労働感があり、それを求める文化が強固という複合要因ではないだろうか。
これが背景にあると、たとえば生理痛、体調不良の女性が休みづらいことも、うなずける。そもそも、休むことが想定されていないのだ。これは無茶苦茶だ。

逆にこれを打破することを考えるなら。業務の進捗管理が可視化されていて、分業と助け合いが定着していて、いつでもリモートワークしたり休めたりする会社が増える、それが当たり前になっていくことが、生理や体調不良で会社に行くのを避けたい人にとって、好ましい状況に近づいていくということになるだろう。もちろんその恩恵を受けるのは女性だけではない。誰だって風邪をひくし、予防注射をしたってインフルエンザになるし、転んで怪我をすることだってある。またあるいは子どもがいる人は、子どもが急に体調不良になって看病の必要があるということだってあるだろう。
出社したくないときは出社しなくてよく、休む必要があるときに堂々と休むことができる会社が増える社会は、誰にとっても歓迎される社会ではないだろうか。

「そんなこと言っても、うちの業種や業態では無理ですね」という声は腐るほど出てくると思うのだが、そういう会社は働き手を確保できずに退場すればいいだけの話である。これから特に日本では、人口減少して市場が縮小するのに、それ以上に働き手の減少が加速していて、深刻な労働供給不足になることが予想される。そうなったときに、働き手の側が、会社を「休みやすさ」で選べるかどうかが、上述のマシな状況を作っていくためには大切だ。体調不良でもどんな理由であっても、出社しないことをいつでも選べる会社は、働き手の立場での組織文化が形成されており、仕事の仕組みが整っており、労働生産性が高い傾向にあるのではないだろうか(今ぱっとソースが出せないんでこのへんは推測であることをお断りしておく)。

って、だいぶパッドマンから脱線してしまった。しかし、このインド映画を観たからこそ、対比的に日本の構造と課題が見えてくるということがある、と記しておきたかった。
そういう意味では、インドと日本の人口構成の違いも気づきを得られるポイントである。インドはこれからまだまだ人口が増えるし、若年層が増える。ということは、生理用品の市場も伸びることが予想され、生理用品は成長産業である。一方で日本は老年人口が増え、若年層は絶対数もどんどん減っており、生理用品は衰退産業だと言わざるを得ない。仮にそうやって市場自体が縮小していっても、生理用品が必要な人たちは数としてはたくさんいるため、供給が求められる。すると、相対的に高価な国内企業や欧米系企業のプロダクトだけではなく、新興国の製品が量産による価格の安さと競争改良による質の高さが相まって、日本にも流通するといったケースだって充分に起こり得ると思うのだ。
そうなると、日本に生きる人々も、パッドマンの起こした社会課題革命の恩恵を受けるということになる。

世界は、市場経済と貿易が機能している限りは、価値の交換可能性で繋がっている。そして、世界中のビジネスを営む人々が、誇りと熱意を持って事業を続ける限り、実際に価値の交換があらゆるところで成立し続ける。
そしてそれこそが、ハラリが言う、戦争、飢餓、疫病の撲滅と歴史の進歩を可能にする動力源なのだ。

ということでパッドマンの感想を純粋に書くはずが、いろんな方向に話がとっちらかった。書いてみて面白かった。

最後に、いくつかリンクを貼っておきたい。
いまなら(2019年1月16日現在)各地の劇場で公開中なので、興味ある人は早めに観に行くことをすすめます!

上に貼ったのは、ラクシュミのモデルとなったムルガナンタムさんのTED Talkである。非常にパワフルだ。映画を観た人なら、思わずこの本人出演のTEDにニヤリとしてしまうかもしれない(笑)。

padmanchallengeというインスタグラムのハッシュタグがあって、これはナプキンを持って写真を撮ろうというムーブメントだそうだ。生理のことを語るのがタブーになっている因習を、写真とITの力で打ち破っていこうというのは興味深い。これはパッドマンの物語の時代(2001年ごろ)では無理だった話であり、今や社会変革とソーシャルメディアが結びついているというひとつの事例かもしれない。

最後の最後、話が変わるが、今日書いたこの記事のヘッダー写真は、映画鑑賞後に食べたカレーである。この映画を観ると思わずカレーが食べたくなること間違いなし。これから鑑賞する方には、事前に映画館近くのカレー店をリサーチしておくことも併せてすすめておきたい(笑)。

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