小説「小間物屋を開く」第6回(全8回)
今にして思うと、富士急ハイランド行の朝、発症した背中の痛みは、心筋梗塞の前兆だったようだ。
実は他にも前兆らしきものはあった。不整脈だ。
最初に不整脈が起きたのは、吉祥寺の映画館でソ連のSF映画を観ていた時だ。その次はアニメ会社の若手プロデューサーの結婚式。真っ青な顔で脂汗をだらだら流していたようで、近くにいたベテラン声優さんから「大丈夫ですか?」と声をかけられたりした。
人が多い場所で起こるので、パニック症候群じゃないかと思った。知り合いの脚本家の薦めもあって、いっとき心療内科に通ったりした。
原因は、高血圧と思われるが、塩分摂取量はどちらかというと平均以下で、喫煙のせいと思われる。タバコは一日三箱ほど吸っていた。いつだったか、タバコによる健康被害に警鐘を鳴らすテレビ番組を見たらしい長男から、「お願いだからタバコをやめて」と懇願されたことがあった。それに従っていれば、こんな目に遭わなくて済んだのにと、悔やまれてならない。
その長男が病院に見舞いにてくれた。
ぼくはまだ歩くことができず、奥さんが車椅子を押して、ロビーまで連れて行ってくれた。
そこに、真新しいブレザーを着た長男が立っていた。来月から中学生の息子は、窓から差し込む春の日差しを浴び、凛々しかった。
「おお」
思いがけず子供の成長を目の当たりにして、ぼくは歓声を上げた。息子は照れ臭そうに下を向いていた。
奥さんが買い物に行って、長男と二人きりになった。
ぼくは何か父親らしいことを言わなければと思い、
「中学生になったら勉強も頑張らないとな」
と柄にも無いことを言った。
長男は何も答えず、困った顔をした。
どうしたのか尋ねると、
「お母さんに言われた……」
ぼそっと言う。
「何を?」
「ニートは二人も要らないって」
「はあ?」
どういう意味なのか尋ねると、長男と奥さんとの間で、ざっと、次のようなやりとりがあったらしい。
奥さん もうすぐ中学生でしょ。ゲームばかりしないで、勉強しなさい。
長男 ……いやだ。
奥さん 勉強しないでどうするのよ。
長男 してどうなるの?
奥さん いい大学入って、いい会社に就職するのよ。
長男 だったら、しない。
奥さん どうしてよ!
長男 いい大学に行きたくないし、いい会社にも就職したくない。
奥さん 就職しないでどうするの? 働かないの?
長男 働いてどうなるの? 働く意味がわからない。
奥さん わからないって、生活するため、生きるためじゃない!
長男 生活って何? 生きるって何?
奥さん ……ふ、ふざけないでよ! ウチにニートは二人も要らないのよ!
奥さんと長男が帰った後、病室に戻ると、ずっと出なかったおならが出た。自分のおならは自宅で嗅ごうが、旅先で嗅ごうが、いつも同じ臭いがしたものだが、この時は違う臭いがした。たぶん食事のせいだろう。一日の塩分摂取量を6g以内に収めなければいけないため、味のないメニューばかりが出されていた。量も少なくて、空腹を満たすため、これまで絶対に食べなかった蒟蒻(こんにゃく)や大根も食べた。ただし、納豆だけは不可。なぜならぼくは九州人なのだ。食事に関する確認書類に「納豆を食べますか?」という質問事項があったので、迷わず「食べない」に○をしていた。
(つづく)
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