【亀山トリエンナーレ2024】出展作品についての思考プロセス②《Le bocal de poisson soluble -溶ける魚の金魚鉢-》
こんにちはこんばんはMasaki(@masakihagino_art)です。
亀山トリエンナーレが開催されました。リサーチから制作までフルコミットした4か月、そしてあんなに時間があったはずなのに、シワ寄せで辛すぎたラスト2週間。
今回は出展作品について少しまとめようと思います。文化財指定されている加藤家屋敷跡の外の男部屋・若党部屋と呼ばれる場所二部屋に、それぞれ一点ずつ展示をするので、二作品制作しています。
また本制作・展示にあたり、岡田文化財団より助成をいただいております。この場を借りてお礼申し上げます。
もう一つの作品の解説はこちら↓
どういう作品を作るか
まず構想を考える
最初の段階でこの部屋で作品を作ることが決まった時は、まだどんな作品を作るのかということはなにも考えていませんでした。一つはインスタレーションで決まっていたので、こっちの部屋は絵画作品をおけばいいか、くらいからスタートしました。でも実際こんなにも期間があるし、インスタレーションの実績を増やしたくてこちらもインスタレーションにしようということに。
同じように作品を作るにあたって、地元企業さんと何か一緒にできればいいな、地元の素材を使うことで強度を増そうということからスタートしました。
《The box weaves history ー歴史を紡ぐ箱ー》の方では、歴史をテーマにした作品だったので、こちらは美術史に特化したコンテンポラリー作品にしようと思いました。
シュルレアリスムを再考察する
インスタレーションをもっとやっていきたいなと思ったのはここ数年強くて、なぜかというとやっぱり世界的なアートシーンを見ていると、年々インスタレーション作家が注目を浴びていて、絵画とインスタレーションを並行して進めていきたいなと思っていました。
最近ふと思い出したのだけれど、もともとデザインの畑にいた時から美術の方に進もうと思ったきっかけは、コンセプチュアルアートのことを勉強したことでした。そういえば最初はそういうインスタレーションに憧れていたんだったなと思い出しました。
Diplomarbeit(修士論文)でもデュシャンやマグリッドに触れていたので、最近はシュールに立ち返っていろいろと考え居たりしました。
ちょうど6月に三重県立美術館内のギャラリーで展示していたので、その時に見た日本のシュルレアリスム展を見たのも相まって、シュールの作家をリサーチしていたところでした。
そんな時にいくつか日本語の書籍を買っていて、そこからいくつかのアイデアを拾うことにしました。
André Bretonをもう一度知る
シュルレアリスムを牽引したというか、先導したとも言える存在なのがアンドレ・ブルトン。そして彼の著書『シュルレアリスム宣言』と『溶ける魚』です。
絵画がアート文脈でメインストリームのようにも感じますが、シュールの時代では文学や詩が先行していました。自動書記(オートマティスム)と呼ばれる無意識下、無作為の文章を書き連ねる技法で構成された、この二つの書籍は簡単に言うと「つかみどころがない」文章です。
なんか突然変な登場人物が出てきたり、なんだかわけのわかんない文章がつらつらと連なっていて、特別何か意味があるようなストーリーでもないように見えます。
その中で注目した部分は、著書の中の文章で
「ここに「溶ける魚」がいるがこちらはまだすこし私をたじろがせている。溶ける魚といえば私こそがその溶ける魚なのではないか、げんに私は〈双魚宮〉の星のもとに生まれているし、人間は自分の思考のなかで溶けるものなのだ! シュルレアリスムの動物界と植物界は、おいそれとうちあけられないものである」(「シュルレアリスム宣言」岩波文庫版72頁)
「ひとつの金魚鉢が私の頭のなかをめぐっていて、その鉢には、悲しいことに、溶ける魚たちしかいないのだ。溶ける魚、これについて考えてみたところ、少しばかり私に似ている。」(ブルトンの手帳の中のメモ/240頁)
この文章は、この『溶ける魚』の中身が詰まっていて、もっと言えばシュルレアリスムの根本のコンセプト部分を物語っているようなどこか魅力的な文章です。
どういう内容かというと、解釈によって差はあるかと思いますが、シュルレアリスムはどういうものか?ということから逆に考えると分かりやすいかなと思います。
シュルレアリスムはオーストリアの精神科医ジークムント・フロイトの「精神分析」の影響を大きく受けています。現実原則と快楽原則というものが人間には存在していて、砕けて言うと「人って理性とかで、欲求を抑圧(コントロール)しながら生きているよね」ということが前提にあって、じゃあ新しい美術を作ろう!と思った時に、「じゃあ現実的な倫理とか理性が働いていない作品を作れば新しいものになるのでは?」ということを考えていたのがシュルレアリスムです。(だいぶざっくり)
つまりブルトンはここで、現実や論理に囚われない流動的で無意識の思考を示唆しています。ブルトンは、魚が水中で自由に動くように、人間の思考も固定された形ではなく、自由で変化し続けるものであると考えていて、
思考そのものを魚(金魚)と捉え、思考が理性などとの境界がなくなり、混ざり合い、自由な形態を溶ける様子に見立てました。ブルトンは、思考が「溶ける」ことで現実の制約から解放され、無意識の領域にアクセスできると考えていました。
展示空間を金魚鉢に
『溶ける魚』についていろいろと考察した上で、この内容を引用してインスタレーションを作ってみたいと思い始めました。今回の展示では12畳ほど?の空間の部屋なので、この部屋を「ひとつの金魚鉢」だと捉え、普段の自分の研究内容である「思考と言語」についての考察を掛け合わせることにしました。
ここまで結構な時間が経っていて、何もまだ作品は出来上がっていないのに、思考することだけで時間だけがどんどんと過ぎていくそんな状態。
哲学者ヴィゴツキーの『思考と言語』についても書籍を集めたり、溶ける魚の原文をフランスから取り寄せることになったり。ほかにもブルトンの著書『ナジャ』を読んでみたりなどいろんなことをしていました。
金魚鉢にする、と言うのは簡単なんだけれど、ではどういうアウトプットにするのか。そしてトリエンナーレの出品作品として地元の企業とのコラボや地元の素材をどうするのかということまで考えていると、非常に難しかったです。
金魚を上から吊るして…くらいのスタートから、どう形にしていくのか、作品としての強度を上げていくのか、ここら辺が非常に楽しいところでもあるけれど、苦しいところ。
まずは金魚に文字を纏わせる
今回の作品で重要なのは、金魚の存在です。これはブルトンの言う「金魚」なのでつまりは脳内の自由な思考を象ったもの。ここで考えていたのは、
➀金魚自体を溶けた様態にする。
②溶けた思考の部分が表現できていることを優先させるのか
という2択。
➀だとしたら、自由に動く魚ということを考えると、金魚としてのある程度の形を保っていないといけない気がする。ダリの時計のように溶けている状態では躍動感がでないのかなと思ったりしました。ということで②を選択して、金魚自体はあまり溶ける様相をさせない方向で。でもこの金魚が溶ける方向では今後、別の作品でやってみようと思います。
ということで金魚にはまずオートマティスムで書かれた文章を纏わせることで、ブルトンの脳内の溶けた部分を表現できると考えて、まずは『溶ける魚』のフランス語原文を纏わせること。
そして私自身がブルトンに倣って、オートマティスムで書いた文章をいくつか追加しました。
私が書いた文章はこんな感じ。
フランス語を少し勉強してたこともあったので、翻訳の力を借りながら頑張っていくつかの文章を構成してみました。オートマティスムの難しさをここで再認識。
三椏和紙の存在
ここで地元企業を探すことを考えていたのですが、伊勢和紙という和紙ブランドを手掛ける大豐和紙工業様に話させていただき、今回は快くご協力いただきました。ありがとうございます。明治32年から続く、現在は三重県唯一の和紙業者様で、伊勢神宮の外宮のすぐ近くに工場がある由緒ある和紙業者様です。
伊勢和紙(大豐和紙工業)
社長の中北さんとお話させていただいた際に、和紙の素材のひとつである「三椏(みつまた)」のお話を伺いました。
実はトリエンナーレの会場地でもある亀山市には、みつまたの群生地があって、その亀山産の三椏でも和紙制作をしているという話。
これはぴったり!ということで、今度はその群生地を管理している「亀山観光協会」の「みつまたを愛する会」のところにお話を伺いに行きました。
ここでも様々なお話を伺いました。
三椏というのは低木で、春先には黄色いポンポンのような不思議なまん丸の花を咲かせます。亀山は山に様々な木を植林したところ、獣害だったり山の環境のせいで、その地が偶然的に三椏の木しか残らなかったそう。それで三椏の木の群生地が生まれるきっかけとなったそうです。
そして開花シーズンでは、お花見の場として、そしてその後はその木を和紙の原料として伐採・植林という林業を行うようになりました。本当に綺麗な花を咲かすことで、東京などから観光バスも来るようになったりするほど。
そんな三椏の芯の部分、つまり和紙の原料は皮の部分だけなので、それを剥いだ後の残りの芯の部分を頂いたり、大豐和紙工業さんの方では倉庫から三椏の皮の部分をお借りすることができました。(ちなみに三椏の由来は枝が三又に生えるからだとか。面白いことに本当に三又に生えている)
またこのフランス語が出力されている紙も、伊勢和紙の三椏和紙です。今回は大量の皮、そして三椏の芯、三椏和紙と、三椏をふんだんに使った素材で構成できることになりました。
こうして、50㎏以上の三椏の皮を円形に並べ、鉢の存在をうっすらを表現すること。
そして芯の束を水草のように見せること。
そして金魚たちにはオートマティスムで書かれた三椏和紙を纏わせる。
和紙で全体を覆うわけではなくて、少し溶ける要素を入れるために、しっぽの部分を残したり、地面にいる子は和紙なし、(地面に近い部分が溶ける面積が多め)など。
また金魚自体は紙粘土で作っているのですが、躍動感や、ピロピロ動いている様子などをできるだけ捉えたりしました。
ただ造形美に気が行き過ぎないように、抽象的な感覚で金魚だと分かる程度にとどめておくことは意識していました。ちなみにおなかぽっこりにすると金魚っぽくなります。金魚にもいろんな種類がいるのだけれど、調べていくうちにこのフォルムに落ち着きました。
1匹作るのにもかなりの時間がかかってしまうことに気づいたのが、終盤で…「あれ…こんなにかかる?間に合わなくない?」
となるくらい。4か月も準備期間があったのに、リサーチから構想から、企業様との打ち合わせなどなどで結局かなり時間がなくなってしまって、こんなにもきつい4か月は初めてでした。
4ヶ月間ほぼスーパーとホームセンター以外の外出はなかったし、最後の方は追い込まれていて睡眠をいつ取るのかというレベルでした。
無事に設営が終わって、本当によく寝ました…間に合ってよかった。
全体を通して
出展作品を作る中で、かなりリサーチに時間をかけたし、
構想にも時間をかけました。
また地方のトリエンナーレとして、地元企業と連携すること、そして地元素材を使うことというのが、サイトスペシフィックであること以上の価値があるのではないかということを強く意識しました。
コンテンポラリー作品を作る現代美術作家として、何が新しくて、何が価値で、何が歴史を紡いでいくことになるのかということを意識しました。
反省点もたくさんあるし、もっといい作品ができたんじゃないかと満足はできないけれど。
ただ作家として、ドイツでずっとやってきて日本に帰国して、知り合いもいないコネも何も持っていない状態からのスタートで、こうして多くの人と繋がれて作った作品です。
良い作品かどうかは自分ではわからないけれど、私はこの制作を通じてい幾ばくか成長できたように感じます。
本作品は、三重県亀山市で11月16日まで開催中の亀山トリエンナーレ2024、マップ番号22番の、加藤家屋敷跡内の若党部屋でご覧いただけます。
作家の僕が在廊しているタイミングは週末であることが多いですが、インスタグラムのストーリーズなどでシェアしていることが多いと思いますので、僕に会いたいなんて方がもしいらっしゃいましたら、インスタをチェックしていただけると嬉しいです。