まだ好きではないけれど

おはようございます。
ぼくたちの家では食事をするとき、白いテーブルを使っています。
四角でもなく、楕円でもなく、真ん丸でもない。
スクエアの角がなくなり、ほとんど丸、でも丸じゃない、という形の白いテーブルです。
その真ん中には、沖縄のカラカラと呼ばれる、お酒を飲むときに使う陶器があり、庭に咲くチョコレートコスモスが活けてあります。

つい先日、いただいたものです。
朝と夜、食事をしながら見るともなく見ているのですが、これがなかなか良い。
見れば見るほどいいのです。
背がもうちょっと高かったらな、注ぎ口の角度がもうちょっとなあ、色がなあ、といった、もうちょっとこう違ったらいいのに、というところがない。
どこにも無理のない形というものは、自然のようです。
木の葉を見て、ここがもうちょっと膨らんでいたらなあ、なんて思ったことがありません。
ありのままを、そのまま受け入れられるのが自然だとしたら、テーブルの上のカラカラは、1枚の葉のようです。
それでいて、ひとの手を感じることができます。
いいなあ、これ、と感じるのです。

どこかのお店にあったら、ぼくはこれを欲しいと思うだろうかと考えると、思わないだろうなと思います。
好きなものを欲しいと思うことは簡単ですが、好きになっていないものを欲しいと思うことはむずかしいですね。

沖縄の焼物はおもしろいと感じることはあっても、欲しいと思ったことがありません。
ヨーロッパの古いものに魅力を感じていましたから。

ところが、ひょんなことから我が家にやってきて、使ってみるとわかることが沢山あります。
好きなものについて、その良さを語ることは簡単ですが、好きではないのに、なんか良いなあと感じるものについて語ることは、簡単ではありません。
これを誰かにあげようという気持ちにはなれないし、割れたらひどくがっかりするでしょう。
手放し難いものです。

まだ好きではないけれど、好きになりつつある。
そんなものがひとつ、毎朝、毎晩、ぼくの目の前に置かれている。
ぼんやりと、いいなあと感じている。
好きでもないのに。

じわり、じわりと日々、ぼくの価値観が広がっていくのを感じます。
この経験がぼくには、ひどくおもしろいのです。

これ欲しい、と思ったものを手に入れることだったら、知っています。
これ、好きになるかもしれないな、どうかな、まだ好きではないけれど、なるかもしれないから使ってみたいな、よし。
というような、買い物をしたことがありません。
音楽のジャケ買い、というのとも、違うし。
好きになる手前のもの、欲しい以前のものを手に入れて、使ってみる。
その面白さをはじめて知りました。

教えてくれたのはHさん。
ときどき、お店にやってきて、いろいろなお話を聞かせてくれる方です。
先日、東京の出張先にひょっこり現れて、家具といっしょに展示していた沖縄の香炉をお求め下さいました。
慣れない場所でHさんに会えて、ぼくはうれしかったのです。
後日、Hさんから電話があり、香炉の窯元と作家名を教えてくださいということでした。
Hさんにお伝えする前に、作家に電話をして、窯を見せていただくことは、また、作品を譲っていただくことはできるか確認をしました。
窯出しの日程を教えてもらい、Hさんにお伝えしたのです。
その後、Hさんは仕事で沖縄へ行った際、窯を見学し、作家のご夫婦とお話しをされたということでした。

白いテーブルにチョコレートコスモスを活けたカラカラひとつ。
生きるものに性格があるように、物にもそれと似たものがあるようです。
ぼくは、このカラカラの持つそれを、とても好ましいと感じはじめています。





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