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It finally goes half-mad.

ひとつのエッセイは、大きさも形も色も手触りもまちまちで、それは一片のトイ・ブロックです。書くのに力を抜くことはあるし、うまく話を落とせずに、えいっと流すこともありますが、それでもやはり、でくのぼうもちんちくりんも丸い子もとげとげの子も硬いやつもふよふよのやつも、揃って、恥ずかしげに、ブロック箱の仲間入りをします。書き手のほうは、きまって眼を左上に向け、茫漠とした銀河系をかき分けながら、何十秒か、あるいは何分か、ときには何十分か、ことばを待つそのあいだが、何とも言えず幸せなので――達者に書けない、と唸ったことこそあれ――書くことそのものを苦痛だと感じたことは、いちどもないようです。書いている時は、読んでくれる人の反応を思い浮かべることは、ほとんどありません。どちらかと言えば、書いている私の、微細なこころの揺れを手探りしていることがほとんどです。もっとも、めったに私の気持ちが分かったためしはないのですが……。生きていれば、いつも自己新記録を狙えはしないし、そもそも当の書き手が、よいことばとはどんなものか、そればかりを知りたくて、飽きもせずトンチキな実験を繰り返している始末、ただ、書くからには、と、ひとつひとつをものするときには、いつも集大成のつもりで取り組みます。この書き手には、文章ではなく生身の方に、やや残念なところが多いので、ブロック箱の中身ときたら、てんで調和が取れていません。書き手もそこは先刻承知、たまに思い出したように、蛍光色のピースやら、スポンジみたいなやつやらを投げ入れてはみるのですが、どうにも、性にあわないから、気づけば、いかにもな顔ぶればかりです。書き手である私は、はじめに中身があって、それを相応しい文字に起こすという順序を、大して信じてはいません。それよりはもう少しだけ、ことばそのものが、おのずと中身のようなものを構成してしまう営み、という手触りを強く信じていて、ちょうど《こっくりさん》のように、意図と非意図のあいだで、ことばがことばを紡ぐさまを、きょとんと斜めから眺めているのが、すごく好きです。いろいろあったようで、生身の書き手は、思想にも政治にもたいそう懲りていて、信心もあったりなかったりであやふや、強い書き手の方が、石膏版に錐で彫りつけるよう書くとすれば、この書き手は、ティシュペーパーにおっかなびっくり、墨で滲むあやふやな文字を置いているようなものです。正体の知れない私の機嫌をとって、という言い方はややそぐわない、cajole しながら、ときにはこうして拙い外国語まで借りて、気を抜けばブロックならざるものに化けてしまう予備軍を、ことば、へと誘導してゆくのは、重ね重ね、楽しく快いものだと感じます。書きたいという欲望が先なのか、書かれたいという声なき声が先なのか、年月を経るにつれて、ただことばが居心地よく感じられる場所づくりに、書き手の関心が向いてきたのかもしれないと思います。とは言え、このエッセイだってひとたびブロック箱に入れば、主たる書き手は、アカウントユーザの《しりん》という私、ということになるので、ことばの居心地悪さがあるとすれば、その不手際の責めは断固として負う、書き手にできることは、おそらくは、その程度のことです。この書き手は、ひょんなことでよく分からない暴走をすることがあり、ことばに、意味を指示したり、行為を使嗾したり、価値を判断したり、そのような不潔な機能がなければよいのに、と本気で熱くなったりしますが、いかさま、思想には懲りているので、しばらくすれば、やっぱり眼を左上に向けて、来たいことばが来るのを、ただ待っています。ひどくつらい時には、ただブロック箱をかき回し、ひとつひとつを、読むともなく眺めているようです。かつて、幾度か自ら仕でかした、ブロック一式投げ棄てるという痛恨事は、常に頭の片隅にこびりついています。いま思えば、その源は、エッセイは私が書いたという傲慢極まる誤認であって、書かせてくれたことばに対して、申し開きのしようもないと、いたたまれないのです。手放して破棄されたあのことばが、どこかで、どのようなかたちであれ、生き続けていることを、ただ、ひたすらに祈るばかりです。

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