なにかが掬い残される
初夢は見なかった。見なかったことにする。
いや、それは誠実な態度とは言えない。誠実とは何かは、書きながら考えてみる。
*
隣同士、二人きりで酒を飲んでいる。長いこと。ぼくの心は穏やかではない。客は他に居ず、バーテンダーもバックヤードで何やら作業している。
右にはぼくより少し若い、屈強な男。イケメンではないが、張りのある声と白い歯の笑顔が魅力的だ(以後、便宜上「きんに君」と呼ぼう)。肩が触れている。
薄暗く、居心地のよいバー。席は八つで、ぼくたちは右端の二つを占めている。きんに君がしきりに喫うキャスターの煙。効き過ぎた暖房。ピーナツとチーズでもたれた胃。向こうの窓の外は、視界を遮る大雪。
とにかくきんに君と話したい。愛おしさ、興味、憎しみ、寂しさ。どれとも判別のつかないこの満腔の想いをどう表せばよいのか、饒舌なはずのぼくは、途方に暮れる。そしてきんに君は、とにかく店の隅にあるダーツがしたい。二人のそわそわは噛み合わず、それが手に取るように分かり、ぼくはやるせない。ぼくのことばは、煙の中に吸い取られてゆく。
きんに君は甘そうな緑のカクテル、私はコロナを飲んでいる。はじめの一杯からずっと変わらず。
と、きんに君がグラスを落とす。床を凝視し、すぐに二人の眼が合う。きんに君は泣いていた。
今しかない。ぼくは意を決した。
*
ナンダコレハ.
何だこれは。
何だこれは。
何だこれは。
何 だ こ れ は 。
*
深層心理、というものを認めたとしよう。これは実に包容力のある学説だ。さて、寝汗で目覚めたオレは、こっち側の方のオレは、一体何をどうしたいというのだ。何をどうすればよいのだ。仕事サボって『夢判断』を読み直せばよいのか。【きんに君 バー 初夢】でググるべきなのか。
なあ、オレ。答えてくれ。
飲みたいのか?
きんに君と二人きりになりたいのか?
そんなきんに君の紫煙に噎せたいのか?
ピーナツとチーズをたらふく食べたいのか?
泣くなよ頼むから。ダーツさせてやるから。
*
意味が分からない。コーヒー三杯飲む。意味とは? めっちゃ歯を磨く。分かるとは? しつこくフロスを掛ける。誰だよあれは。めっちゃ全身泡立てる。何だよあのカクテル、クリームソーダじゃん。車の雪をブラシで完璧に落とす。泣かないでよ、二人きりで。誰も居ない細道でドリフトをかます。
*
きんに君なんて、あくまで便宜的な呼称だ。あの中山のとはだいぶ違う。郷ひろみと若人あきらくらいは違う。野口五郎とコロッケくらい、植木等と清水アキラくらい。もっと、
*
夢のなかのきんに君の方が、はるかに優しく逞しく、魅力的だったな。
* * *
という愚にもつかない実話(夢とは実話なのだろうか?)掌編を書いたあと、同性を愛することについて、私の側に隠微な偏見と好奇の視座があるように感じられたとすれば、それは直ちに没にするだけの了見はあるですが、どうも思い返せばそうではない、異性愛者の私ではありますが、違和感はそこではなく、実際に彼は目覚めて十一時間後の今でも充分に魅力的な人でありましたが、むしろ
ぼくがこんなに君を好きなのに、君はダーツばかり見ている
あのバーでのダーツへの並々ならぬ嫉妬、それが二十数年前に当時の恋人と私が別れた正にその原因であって、その時ダーツに現を抜かす馬鹿野郎が私の側であり、そのような一切合財を今朝まで隈なく忘却していた、加えて寝る前にランダムで流していた洋楽の最後の曲が、彼女と頻繁に聴いた Blur 'Tracy Jacks' であったらしく、そして私には、十一時間と少し経った今でも、彼女の名前が思い出せない、
つまり、と私は大いに疑う。「ぼく」のこの夢は、「オレ」と「私」と Blur によって捏造された可能性が高いのです。目覚めた私は、逆再生するように次々と想起された過去の現実におけるシーンを、ハリボテの夢のなかに挿入した。不合理とナンセンスを、有り合わせの乏しい経験で補填した。かくて叙述可能な「初夢」は徐々に完成したのです。そうに違いない。
もし、そのような重層的なコラボレーションによる記憶の再構成―固定が、2020年の私の「初夢」という作品を形成しているとすれば、今の私が取り組むべき課題は明白です。
すなわち、現世利益のための意図的な「初夢」捏造であります。
【はい、訂正】
・舞台は富士山を望むバーでした
・バックヤードのバーテンは鷹でした
・チーズではなく茄子でした
ほら今年も開運、さっぱりした。
* * *
しかし。彼はほんとに魅力的だったな。
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