重症筋無力症により馬鹿になった話

 何十もの先行研究をサーチしたが、重症筋無力症と《頭の悪さ》の連関は言及されていないようだ。それはしかし、クリスチャンにとってア・プリオリに《神は存在する》ように、私にとっては疑いようもなく《連関している》、あるいはこうも言えようか
 《重症筋無力症とは、馬鹿になることである》

 なにも、またぞろ suffering の特権化を論おうとするのではない。誰もが各々の suffering をかかえ、各々のやり方で抱きしめる。そこに優劣を見出すつもりはないし、いまの私は、区区たる特殊性に胡座を掻いてまで、ことばを紡ごうとは思えない。

 私はいつだって、ダイレクトに普遍そのものだけが欲しいのだ。たとえ頭は馬鹿になっても。

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 ひとつ愚痴を挟む。私事ではないが。

 某・実名系SNSの障害者コミュニティに(形だけ)参加している。単純に、就労形態のヒントを模索しているのだ。しばらくそこに流されてくる投稿とコメントを眺める。はじめて知る途方もない『醜さ』、それは、身体障害者と精神障害者の不和・憎みあい・相互軽蔑。

 大学の「日本被差別階級史」で学んだ、(支配階級に仕組まれた)相互軽蔑の構造と、何一つ変わりゃしないじゃないか。なぜ苦しむもの同士、だからこそ境遇を察し、労りあい、助け合うことができないのか。

 愚かだ、あまりに浅はかで愚かで、真の意味で、大馬鹿だ。

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 話を戻します。

 ネガティブなことばを吐いた後は、必ずうがい手洗いを励行します。がらがらぺっ。ごしごし。

 自分自身に認識される形で《馬鹿になる》という経験は、決して心地よいものではない。

物忘れが甚だしい。というより、聞いたことを覚えていられない(だからケツのポケットには常にメモ帳とペンがある)。
・話したいことが「ことば」の形態をとってくれない。適切な語(特に接続語)がうまく出てこない。
人の話が、少し長くなると頭に入らない。意味と音声の中間くらいに認知されて、意図して聴こうとすると、ひどい頭痛と疲労を覚える。

 以上のような症状・病識を、新しい環境で新しい関係の人たちに伝えるのは難しい。「病前はまあまあ頭もよかったのですが、病気でなんだか馬鹿になって……」とは、言えそうでなかなか言えないものだ。突き詰めれば、大半は言う必要もないことであるし。

 目下の仕事で一番困るのは、生徒の名前(前はすぐに覚えられていた)と料金体系が、何十回覚えようと努力しても、どうしても定着してくれないことだ。

 生徒たちには、有り体に病気のあらましと《馬鹿になったこと》を伝えて、名前を何度も聞き直す。嫌な顔をする子は、今のところひとりもいない。語呂合わせとか、名前の由来とか、同じ名前の有名人とか、サジェストをくれる子もたくさんいる。そうやって間合いを縮めることができた子もいる。

 大人は怖い。本当に怖い。「大丈夫ですよ」目は少しも笑っちゃいない。「本当に〇大学なんですか?」の陰口も聞いた。面と向かって言えばいいのに。

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 いまは、身体が不自由になり頭が馬鹿になった自分が、それでも萎縮せずルサンチマンを抱えず、心地よく生きてゆける術、せめて娘を一人前に巣立たせるまで食べさせてゆける形を、馬鹿な頭で、一生懸命模索している。

 私はそれでも、他ならぬ私であることに、最後まで誇りと自信を持っていたい。

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