【痛快讀物】Whither All These Emotions Shall Drift

知ってるよ、ほんとはなんにもない、なあんにもない。昨日見た夢ほども、なんにもない。夢はぼくに向かって生じ、過ぎてゆく。ぼくは、✕✕✕に向かって生じ、過ぎてゆく。この✕✕✕が埋まらないまま、たまに勘違いかなんかで、ふと気持ちが上がって、素晴らしきこの世界、とか、サッチモのペットとか、こう、やにわに盛り上がってみたりもするけど、生粋の哲学者(てつがくもの、と読みます)を侮っちゃならない。侮っても構わないけど、18歳で人生を「《わたし》の擬人化」と喝破して、そのノートをプロントのゴミ箱に捨てて、ついでにノートに挟んだ成績表も捨てた経験があるのだ。そんな者、ぼく以外にいるわけがない。(教訓:ライヴァルの無い闘いは、いつも栄光に彩られている)

そこから、同じくらいの年月をかけて、平凡愚鈍への道をとぼとぼと逆行するのです。意味が無いのです。一種の悟りが訪れるとは、実に地味で冴えないことで、それが来たから森羅万象が光に覆われることもなく、従来よりモテるわけでもなく、賢くなりさえしない。道玄坂の付け根あたりで、道元禅師の喝破に相当程度近づいていたが、ほら、道元、いまプチブームみたいじゃないですか、たぶん130回目くらいだけど、これが本当のブームになり、時代の風となり、国是となると、それは浮き足立つほど愉快痛快、GDPがものすごい傾斜角でゼロに近づいてゆく毎四半期、そして、永遠のゼロ。

That is the answer.

Everything begins from the answer.

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踊る阿呆に見る阿呆
同じ阿呆なら踊らにゃ損損

これは大変なことやと思うよ。

踊る阿呆は、いかんせん阿呆なので、見る者に、そりゃあこっぴどく叩かれる。阿呆のくせに踊るから、炎上不可避なのです。しかしながら、見て叩き炎上させるのも阿呆と来た。踊る阿呆を叩き炎上するのは、それはそれで、陰鬱で救いのない愉しさもありましょうが、叩かれず湿気て火もつかない当阿呆という、もっとも直視した方がよい現存在のみが盲点で、そこが盲点になるという真理でさえ当阿呆にとっては盲点なので、踊る阿呆(A)、見る阿呆(B)以外の任意の地点(P)から観察すれば、Aは「自発意思により踊る阿呆」、Bは「踊る阿呆Aにより傀儡のごとく踊らされる阿呆」になるわけで、自発意思ほど美しいものはない、というヒューマン世界においては、踊る阿呆Aから美点のみを差し引いた存在が、見る阿呆Bということに相成る。

相成ろうが成るまいが、そんなことはブルキナファソの政治思想史くらいどうでもよく、それでも忘れてはならないよ、「ブルキナファソの政治思想史」が、ぼくにとってのファミチキくらいどうでもよくない人間も、この広い世界のどこかには必ずいる、ってことをね。

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「書く」、ただ「書く」、無念無想に「書く」

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意味を放棄することなく、意見のみを周到に排除する書き方は、若い頃から、ぼくの何か大事な作用を癒す装置として機能してきた。

ああ、ここはグリーン・ウッドなどのどこかに必ずまたちゃんと伝えるの忘れて何年もどんどんグレードアップもしない。

こういうのは、とても嫌だ。意味を放棄しているのが見え見えだ。勿体ぶった書道とか前衛藝術とか、'It's all up to you what this implies and doesn't imply' 的布置は、ノストラダムスの千億通りの恣意的解釈がうわっ嫌い!なのと同じ感じで嫌いなの。創り手と受け取り手の共同作業、いやいや、ちゃんと創れよ、創り手なら。

ああ、嫌い、って公言するの、ものすごい気持ちいいんだね。胸中に清涼な風が吹き抜けるように、気持ちがよい。そうそう、もう、嫌いがひどすぎて、もし依頼が来て張本勲の代わりに「サンデーモーニング」に出たら、別に関口宏に縁も恨みも思い入れもないのに、オンエア中にショッカーみたいに跳び上がって、関口宏の体に隙間なく『喝!』のシールをぺたぺたぺたぺた貼りまくってそんな自分に宮尾すすむのような会心の笑顔で「あっぱれ!」を出すだろうなあ、と思う。今はじめて思ったが、非常にフィットする心象風景であることだ。

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アクターとしての書くぼく
ディレクターとしての書かせるぼく
オーディエンスとしての読むぼく
プロモーターとしての読ませるぼく

それらがかなりくっきりと分かれているときは、頭が冴えていますが、精神にクライシスを覚えます。「ボードレールは訳の分からんばい」と思うときは、頭が冴えていないのではなく、精神がノット・イン・クライシスなのです。あの精神病院の絶対無意味なアンケートより、いくつか詩の断片を印しておいて、ピンと来るやつに まる をつけてもらう方が、わりといろんな深淵が分かるんじゃないだろうか。しまった、馬鹿にするわけじゃなく、日本人の97%くらいは詩が読めないんだった。日本人の3%が住む国ないかなあ。

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なにひとつぼくの鎧以外を語らず、ぼくはじつに効率的に、精神と現世利益的な均衡を回復する。このような書き方は、ディレクターとアクターのみを全面に押し出してゆくイメージです。セルフスタニスラフスキーシステムですね。この「あわい」を超えて、創作に踏み出すと、いまのぼくは、そこに新たな――忌まわしきおぞましき――秩序と整合性の王国を建立すること必定、それは言わば、『ふりだしにもどる』なので、この辺りの halfway でぼやぼやと真剣に戯れをするのが、よいのだ。

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