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Winding Road Leads To You

 創作でないこんな綴り方の延長も、1000年、100年、10年、いやせめて2年、とそれぞれに賞味期限を設定して書いてみれば、思いのほか難しいのだ。そして、難しくないことは、したくない。

 あなたが「好き」をこわくなったころまで、この文の賞味期限は持たせようね。いつもみたいに、大人だから、たくさん下らないことを書いてるから、面倒なときは、いちばん下までスクロールするんだよ。

*

 わたしは非常に生意気な生まれつきで、それは禁酒・禁煙・断薬の比にならぬほど頑固な、わたしから生意気を取り去ったら、濁ったエーテル体的な何かがふよふよと浮かんでいるに過ぎない、そのような核の部分なので、題材の良さで読んでもらおうと思えない。

 もちろん、取材の妙も、文章構成の重要な才能であり努力であることは、百も承知だ。こう言い直すべきだ。禁酒・禁煙・断薬の比にならぬほど強く、わたしは作文に複数の縛りを掛けている。たとえば、紀行文を書かない。人間模様を書かない。特ダネを売らない。(許可と必然性の無い限り)固有人名を描かない。それぞれの制約に、それぞれの内的動機がある。その内的動機を書かないのも、またひとつの制約である。

 こういう文章は、絶対に流行らない。土地ネタ、人情の綾ネタ、トレンド、井戸端会議、著者こぼれ話。これらを抜いた雑文とは、具材と麺とおつゆと什器と薬味を抜いたうどんである。そこには、うどんという名の虚無が広がる。流行らないし、第一よく分からない。読み巧者のわたしが断言するのだから間違いない。

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 何が残るか。

 「江戸情緒と国際化のハブ・京成金町、頑固亭主と気さくなばあちゃんが、メンマとチャーシューてんこ盛りの『ラーメンうどん』で繋ぐ人情の糸」から、わたしは取り去る取り去る。断捨離をも容赦なく断捨離する。

 残されたのは当然「」であるし、それがもっとも清潔な作品である。何も4分33秒も要らないのだ。現にわたしは名品『0秒』(作成時間:数日)を何作も仕上げてきた。阿呆もここまでくればだいぶ仕上がって、マイナーリーグくらいなら何とかなりそうだ。

 ・金町の江戸情緒とは何か。(20本)
 ・国際化とそのあるべき姿とは。(70本)
 ・人生の大海を頑固・気さくの一言で型取りする妥当性と是非。(40本)
 ・人生は大海になぞらえられるか。(10本)
 ・無資格の記者は『ラーメンうどん』を批評する権利を有するか。(15本)
 ・人情の定義。(50本)
 ・うどんと人情:経済的立地的戦略描写とパラレルに人情を叙述できるか。(10本)

 以上、このミニコミ記事に取り組む課題と、必要な記事数の概算である。これらの自省・調査・分析を経て、わたしは金町の『ラーメンうどん』を巡る2枚見当の提灯記事を仕上げる。このような畢生の大作が載った『るるり 浅草・下町20』は、直感的にけっこうまずいと思う。まずいのは『ラーメンうどん』でも親父の態度でもなく、神宮外野席の紋付袴的なまずさだ。

 無事に仕上がったとして、掲載は『るるり 浅草・下町23』くらいまでは押すだろうし、加えて亭主とばあちゃんの生理的都合もあるし、国際化のあるべき姿を40字程度に圧縮するのは決してあるべき姿ではなかろうし、何より『るるり 浅草・下町』はナウなトレンドの情報誌であり、かつて在りし日のセピア色の思い出では、良くないのだ。

 このようにして、わたしはただ、食べる。無言で食べる。もちろん札幌にいるから、金町の『ラーメンうどん』は食べないし、そんなものはたぶん無い。れっきとしたモノを頂きながら、概念を食べるように日々を食べるのは、きっと生意気だから。そんな小噺のようなまとめも、もちろん要らない。

*

 前の*から*の間において、わたしは何を書いたのだろうか。金町を語るようで何一つ触れず、定型的な地場のうどん屋夫婦を出しておきながらディテイルはすべて放置し、『ラーメンうどん』の出汁の色も伝えず、ラーメン寄りなのかうどん寄りなのかさえ(麺だけに)延ばし延ばしで宙吊り、その店内で繰り広げられる人同士の付き合いを思わせぶりに放り投げ、かつ、そんなものはありません、と*を置く。

 そんなことではどうにも仕方がないから、テンプレと20分を使って、そういう感じのそういうコラムをちょこちょこと書く。

 低い家並の商店街の向かいに、新しい高層マンション。買い物カゴのカートを押す婦人と、インド系のビジネスマンがすれ違うそんな京成金町駅から徒歩4分、国道6号線沿いの雑居ビル1階『名代 かす美』。決して目立つ店構えではないが、さまざまな国籍の人が列をなす。醤油と鶏ダシの香ばしい香りが漂う。小さめの幟に「麺は人をつなぐ」「ラーメンうどん」と書かれている。店内はカウンター8席・テーブル2席。グルメで知られるピート・あかしをはじめ、著名人のサインが所狭しと飾られる。人気の秘密は、亭主の矢崎昭治さん(76歳)が25年前に考案した『ラーメンうどん』(760円・税込)。ラーメン? うどん? 「ほら入口の幟ご覧になったかしら? 主人、ああ見えて意外に達筆でしょ?」困惑する記者に、奥さんの歌澄さん(79歳)は明るい笑い声。「皆さんはじめは、何と言うか疑心暗鬼、そんな表情なのよ」。カウンターからも、そうそう、yes, と気さくな相づちが飛びかう。そんな会話を縫って、主人がテーブルに丼を置く。やや薄い鶏ダシに、ヒグチ製麺の細うどん麺、何より目を引くのは山盛りの地鶏チャーシューとメンマ! まずはスープを一口。しつこくなく、それでいて旨味が強く鼻を抜ける。麺を絡めると、とろりと色づく。「秘訣? 片栗粉でトロみをつけてみたの。それと、あとは100%の愛情かしらね」と大きな口を開けて笑う。取材の間にも、常連さんが次々に首を突っ込んでくる。サイドメニューの『菜の花ギョーザ』(6個450円・税込)も絶品とのこと。体も心も芯から温まるひととき。ぜひお試しあれ!

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 それで何かが豊かになったわけではない。わたしの大事な金町老夫婦の『ラーメンうどん』のイデアはどんどん遠くに消えてゆく。

 ところで今日の晩飯、わたしはラーメンうどんを試作してみるつもりだが、それは書くという動作からはさらに離れた、迷いも惑いもない「行為」である。楽しみだ。チャーシューは「スーパーダイイチ」が安いから、駐車場の雪掻きをしなければ。ならば、頓服のマイテラーゼを服んどくのが無難だ。菜の花ギョーザは手先が面倒だから、今度にしよう。

*

 やればできる子だから、やればできる。がしかし、個人的に、ほんとに100%個人的に、《そういう》話に興味が無いのよ。食べるのとか街を歩くのとか観察したり発見したり調べたり、たぶん人一倍好きで、ただそれをなぜ書くという動作に直結させうるのか、どこかで巧妙に化かされた気がしてしまう。いいよね、ここわたしの庭だし。

 かなり大きな要素に、この捩けた感性の羨みとか嫉妬とかがあるっぽい。エゴイスティックに「好み」を語る鈍感さは、とても欲しい。きちんと誠実に語れば語るほど、五感の「好み」の話題は、合おうと合うまいとほぼ常に錯綜し葛藤し紛糾し胃もたれと軽い頭痛に終わるというのは、わたしのなかでは初等教科書に載っている定理で、さはさりながら、なぜ自己紹介のいろはは五感の「好み」を語ることを必修にするのか。身も蓋もなく、あほみたい、と思ってしまう。

 聖徳太子(厩戸皇子) 574-622 飛鳥時代の政治家・思想家。用明天皇の第二皇子。推古天皇の摂政。蘇我馬子と組み、天皇中心の中央集権国家建設、仏教の弘隆に努める。遣隋使の実施、冠位十二階の設置、憲法十七条の制定などを行ったとされる。日本初の仏教注釈書『三経義疏』を著したと伝えられる。好きな食べ物はワラビ(ゼンマイはNG)、好きなストレッチはアキレス腱伸ばし、好きなタイプは橘大郎女、好きな都は斑鳩宮、好きな本は『勝鬘経』、好きな季節は晩秋。

 この太字部分の存在意義がどうしてもよく分からないから、自他ともに軽い「変な人」感を覚えてしまうんだと思う。逆に、これは経験則でよく分かるのだけど、わたしが昔っから偏執的に掘っちゃ書き掘っちゃ書きしてるあたりが、けっこうな多数派にとっては辛気臭かったり悲壮ぶって見えたり七面倒に思われたりするようで、疲れ過ぎて数年間人に文章を見せるのを拒絶したことが何度かある。けっこう、それくらいは深く悩んでもいる。わたしは 生意気だから、と煙幕を張らなければ踏み込めないくらいに。

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 きっかけは、娘が〇〇のアニメを見ていないので「いじわるされる」と聞いたことで、わたしはたぶん、娘のため以外に文章を書けない。過保護はやや過保護だけど、あらゆるコネを駆使して完膚なきまでにいじめ返してやるとか、そんな世界をテンペスト転覆してやるとか、そういうのは無い。ただ、わたしの胸はやはりひどく痛むし、わたしもそのようにして度々疎外されてきたことを、わたしは忘れない。

 彼女はとてもアリエル(『リトル・マーメイド』)が好きで、アリエルの塗り絵やアリエルのお絵かきやアリエルごっこだけで、優に半日を過ごす。それはわたしも舌を巻くほどの本気だ。できるならば、彼女自身が脱アリエルを図るまで(無論図らなくともよい)、アリエルに夢中でいてもらいたい。「えー、だっせー」の雑音が、そのきっかけであってもらいたくはない。ある人にとって、好きは貫くものかもしれない。だがある人にとって、好きは拗らせるものでもある。些細な反応で。隠微な目付きで。

 子どもは残酷だ、などとしたり顔で言わない方がいい。大人は残酷でないのだろうか。そしてわたしの三面鏡はいつもわたしを向いている。わたしは、残酷でないだろうか。わたしはいつまでもワラビを語らないだろう。ゼンマイを愛する繊細な人に、あの余計な思いをさせないように。わたしは、わたし自身より少しだけ多く、この先も続くこの世界を愛していたいから、そのように書くのだ。一緒にはしゃぎながら「ねるねるねるね」を食べるのだ。

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