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わたくしの名前

   わたくしの名前

 修身の時間に、しば野先生が、
「君たちの名前は、どのやうにしてつけられたのか、親に聞いてくるやうに」
とおつしやいました。
 だからわたくしは、連らく張に、大きく「名前のことをきく」と書きました。

 あれから幾年月。
 直後、南方に居た父の戦死公報が届いた。祖父母と母との折合いが悪く、急な転校を余儀なくされた。転々と居を移し、中学卆業後、私はF市の仕出し屋に就職した。大将の勧めで美也子と所帯を持った。子供二人授かり、男子四十を前に、隣のO町で暖簾分けを許された。当初は新参者と云うわけで苦労したが、美也子に考案になる「梅の実トンカツ」が工場の連中に当り、経営を軌道に乗せる事が出来た。家内の明るさとアイデアに、何度救われた事か!
 ある日、遅い晩飯の卓で、上の子が「名前の由来ば聞いてくる宿題出たんやけど」と云った。私が「そげんとは自分で分ろうもん」と返したら、彼女、小梅は、不貞くされながら頷いた。下の息子(勝実)は何しろ無口で、このようなやり取りは無かったが、恐らくは家内にでも訊いて書いたのだろう。
 小梅は商科の短大を出て、横浜の商社マンに嫁いだ。勝実はQ大の理科を卒えて、F市でエンジニアになった。還暦を過ぎた我々は定休を増やし、それ迄働き詰めであった分、色々な場所へ旅に出た。
 七年前の暮れの事。勝実一家がここに来た時、孫の史也が作文を読んでくれた。私と家内から一文字ずつ採った事、「フミヤ」と呼ばれてチエッカーズみたいで恥かしい(皆が大笑いだった)事、そして終いに、派手な由来ではないが、大好きな爺ちゃんと婆ちゃんからのプレゼントを嬉しく誇りに思う、と読み終えた時、私も美也子も涙が零れて止らなかったものだ。
 あんなにも利口で元気だった史也が、段差に自転車の車輪を取られて死んだ。私は未だに信じられないのである。通夜に行っても葬儀に行っても、史君が美也子と一緒に眠る墓参りも欠かさないが、どうにも信じたくない。

 二週間前の夕刻、気鬱を晴らそうと散歩がてら、美也子と史也の墓参に行くと、紺背広の小柄な若者が、家の墓に手を合せていた。どうにも心当りが付かない。間を置いて一礼し「失礼ですがどちら様でしょう」と聞くと、史也の担任の先生だと云う。多忙を縫って一生徒の墓に手を合せてくれる教師らしく、実に清々しく良い顔をしている。私の

*

「御名前ば頂戴しても」
「申し遅れました、柴野、と申します。柴野修です」
「古い話で恐縮ばってん」 黙って頷く。
「Z村で教えとられた柴野先生とは」
 大きく眉を上げて、柴野は答えた。
「恐らく、私の祖父です。柴野」剛毅、と声を合わせる。
「さようでしたか。ほんなこつ、よう似とられる、瓜二つばい」
 修は照れくさそうに首を傾げ、
「祖母にも父にも、いつもそげん言われとりましたが」
「御祖父様、ゴーキ先生な今」
「祖父は、私が生れるずっと前に亡くなりました」
 おいもこの歳じゃもん、仕方のなか事、と何度か頷く。
「昭和の二十三年、やったと思います。祖母に聞いたんですが、祖父は若か時から胸ば悪うして、こいのどこが剛毅じゃろか、が口癖だったとか」
「そうだったですか……。私は半年だけゴーキ先生に教わりました。実に優しく、志の高か先生と、子供心に好いとりました」
 御礼に伺いたいと述べ、修の住まいを訊くと、墓地からはそう遠くなかった。

*

私の担任だったゴーキ先生に生き写しの青年は、柴野修と云ってあのゴーキ先生のお孫さんであった。不思議な御縁だ。
 その場で別れて帰宅し、何十年もの間ホコリを被ったままの箱を返してみた。母が取って置いてくれた、子供時代の通信簿や配布物が残っており、くしゃくしゃのこの作文用紙は、その中に挟まっていた。

 柴野先生、提出が遅れ申し訳ありません。尤もゴーキ先生なら、良か良か、何年掛かってん良かけん、納得ん行くごと書け、と肩を叩いて下さる気が致します。
 父、甚一はニューギニアで戦死しました。母に変ったこの名前の由来を訊くと、父ちゃんが独断専行で付けらしたけん、と首を傾げます。その母も遠にそちらに逝きました。だから、私は自分の名前がどのような想いで付けられたか、最早知るすべはありません。
 先生に甘え、実を申します。山あり谷あり、この歳まで何とか生き長らえ、この名前の由来など何であろうと構わない気持ちで居ります。この体を産んでくれた父と母が、どんな想いであれ、私に最初にくれた物です故、少しの嫌な経験など何でもない事です。霊験ある御守であり、最良の同志です。

 最後に、ゴーキ先生へ。
 ゴーキ先生。先生は背が小さくやせていらして、背中もやや丸まっていた覚えがあります。厚い眼鏡の底に、いつも微笑んで私たちを見守る優しさを感じて居りました。先生がアカだとか非国民だとか、そのような中傷は勿論、私達にも聞こえて居りました。頭では先生のそのような面は怪しからんと考えた事もありましたが、それよりも、私は先生の人間が大好きでありました。
 周囲の轟々たる非難に屈せず、あの戦争のさなかに、愛と忍耐で教鞭をとり続けた先生を、私は実に剛毅な方だと感服します。
 有難うございました。

   中島 巻史
 
 

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